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okkyの日記: 「心の傷」は言ったもん勝ち 9

日記 by okky

「心の傷」は言ったもん勝ち

先に被害者面をした方が勝つ被害主張者帝国主義(本の中では「被害者帝国主義」となっているが、実際には「被害者であると主張している」だけの存在であって、実際には「被害者」とは到底呼べない存在である事が殆ど。なのでこれは「被害者」ではなく「被害主張者」が正しい)の異常さを訴えた本。

いやはや。全く持ってその通り。

弁護士帝国の尻馬に乗って、下卑た主張をしている連中を見ると実に反吐が出ますが、この本はいかにそいつらがナンセンスをほざいているのか、すっきりと説明しています。

実に久しぶりのお勧め
# いや、エロ本のお勧めは除いての「久しぶり」だが。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • 本当にこういう被害主張者を見るたびに
    「日本も訴訟大国になっていくのだなぁ」と感慨にふけるのは容易だけど,
    なぜそうなって行くのかについてはあまり深く考えたことがなかった.
    それにしてもokky氏の本読み守備範囲の広さには感服します.
    自分なんぞほぼマニュアルとコードと特許資料と関連論文だけしか読んでいません.
    社会人にとって「時間がないから」ってのは通用しないのですが・・・
    正しくは「時間を作る能力がない」ですから.
    --
    屍体メモ [windy.cx]
  • 弱者というものが認知され、救済されることを苦々しく思う人は世の中に多いらしい。
    かつて「ネットカフェ難民」というものがテレビドキュメンタリーで漸く報道されて
    認知され始めた頃、どこかのブロガーが「あんなものはヤラセです」と根拠なく断言
    していたことがあった。その主張があちこちのブログに引用され、「なるほどそうか」
    などという反応を集めていたことは記憶に値する。

    いわゆる「心の傷」についても、その言葉を濫用し過剰な救済を求める輩は当然いるだろう。
    単なるアネクドートでよければ幾らでも並べられるはずだが、それには大した意味がない。
    救済の過剰と、救済の不足と、どちらが問題のマグニチュードとして大きいかの考察が
    より重要だ。
    • 救済の過剰と、救済の不足と、どちらが問題のマグニチュードとして大きいかの考察がより重要だ。

      考察する必要も無いぐらい、基本的な話だと思うが。

      弱者救済というのは単に「パワー順列を入れ替えている」のに過ぎない。問題はその入れ替えが「適切なのか」と言うこと。救済の過剰や不足の問題ではないし、過剰・不足問題と捕らえようとする段階が、そもそもの間違い。

      .

      問題は「努力をしなかったために下にいるのに過ぎない」連中まで尻馬に乗って上に上がれるようになっていること。これはルールを策定するもの、適用する判断をするものが短慮・観察力不足・無能・自己防御的であるために起こります。

      尻馬に乗ることに集中している連中の方が波乗りが上手いので、結果として

      ・本当に救われるべき連中は救われず
      ・被害者だと主張する事だけに集中して、本当は被害者でもなんでもない連中が救われる

      という現象を起こします。

      つまり「救済の過剰」や「救済の不足」などという事は起こらないし起こっていない。いまだかつて起こったことも無い。起こっているのは常に救済の不適切な割り当てです。

      .

      これは税金の問題と一緒。「税金が足りない」と言う前に、「税金の使い道を正す必要がある」と言うじゃないですか。

      「やるべき事をやるための予算が無い」ということそのものは局所的に見れば正しいのでしょうが、この状態を正すのに「増税すればよい」と言うのは短慮に過ぎます。広く見れば「やらなくて良いことをやっている」分があり、それをまわせばよいのですから。

      同様に、「救済が不足している」からもっと弱者が有利になるようにすれば良い、と言うのは間違い。まず、そいつは擬態しているだけの強者ではないのか?という問題を説く必要があるのです。
      --
      fjの教祖様
      親コメント
      • 「見抜く」という単語はいまや詭弁の隠れ蓑になっていると思います。
        なぜかというと、そいつは(殊に意味のあるケースでは)際限なく知的リソースを
        必要とする行為であるにも拘らず、「出来て当然」「出来ないのは恥ずかしい」
        という予断を与えるものだからです。

        例外的に、今まで誰も疑って来なかったもの、に初めて疑いの目を向けるときは、
        わずかな努力で多くの偽者を見破ることが出来るでしょう。しかし、裁判を経て
        救済対象を決めている分野では、そのモデルは当てはまりません。

        fjの教祖様が、(あるいは別の場所にいる別のカリスマが)「見抜く」なる言葉で
        何かを説明したように装ったとしても、「見抜く」コストが有限値に収まることを
        保証できる訳ではなく、それはしばしば予測不能だという前提で制度設計せざるを
        得ない、という制約を取り払える訳でもありません。

        すると何が起きるか。

        不必要な救済を剥ぎ取る、という名目で、必要な救済を剥ぎ取ることを実質的な
        ねらいとする政策が遂行される訳です。生活保護の厳格化といい、いつも起こって
        来たことです。
        親コメント
        • ここに書かれているのは、多くの擬態者が、自分の既得権益を守るために振りかざしてきた屁理屈に過ぎぬ。屁理屈に振り回されてはならぬ。

          .

          よく考えてみて欲しい。「被害者」は保証を得るための努力「以外にもやることがある」。しかし擬態者は保証を得るための努力「だけが仕事」だ。だから、単純な低コスト方式(柔軟性の無い判断基準による分別)を使えば、どんなケースでも擬態者がサービスの大半を受け、真の被害者はサービスを受けられない。

          サービスの容量を増やしても擬態者の数が増えるだけだ。

          社会サービスの大半が、真に必要なものではなく、不適切な擬態者に食い荒らされる理由は、ここにある。

          そして、擬態と言うのは、進化論の過程でも出てくるぐらい、自然に行われる創発現象だ。ちょっとでも「利己的に自分の優位性しか考えない」「周囲に対する十分な思慮の無い、短慮で無神経な」存在は、かならず擬態を行おうとする。

          「擬態を判別し、はじく」機構には「報復構造」がどうしても必要なのだ。少なくとも現在知られているあらゆるゲーム理論上の戦略で、「単純報復構造」だけが長期繰り返し囚人のジレンマ問題を解決する事が知られている。それ以外の戦略は全てコスト対効果が十分得られない。

          .

          その一例はまさにこれ:

          見抜く」コストが有限値に収まることを保証できる訳ではなく


          擬態者を見抜く能力には完璧を求めて非常識なまでに高コストであるかのように主張するが、実態は判定者が
          「面倒くさい」
          「うらまれるのが怖い」
          という理由で、おかしなものまで「被害者」のはんこを押しているに過ぎぬ。つまり

          ・判定者が嘘の判定をしても、判定者自身へのコストは低い

          事こそが、擬態を容易にしている。

          判定者の嘘の判定に対する高い罰則と、正しい判定に対する高い報酬、判定者を複数用意しなおかつそれを資格制にしない(資格制度はそれ自体、「判定者としての資格が無い」存在が擬態する状態を生む)、擬態者に対する高い罰則の4点が基本的に擬態を難しくする。

          .

          こういうことを考えない、vnさんの言うような意見が愚劣なる善意というものだ。

          保障を厚くする・薄くすると言う概念と、厳格化・擬態の排除という概念の区別がつかない人が方法論を考えると
          「全部一律に薄くすればいい」
          「全部一律に薄くすると主張している」
          などという『わかりやすいが間違った』結論に到達する。で、そういう人ほど
          「政治屋」と「政治家」の区別がつかないまま、耳あたりのよい事を言う政治屋に投票し、結果として『全部一律にうすくなる』という、結局擬態者のためにしかならない方策に一票を投じる結果になる。

          利己的で、自分のことしか考えない「政治家のふりをしているだけの」擬態である政治屋に一票を投じたら、そりゃ意味も無くサービスが悪くなるだけで、判断基準は改善しないでしょうよ。かれらは「税金を自分のよいように使いたく」てなおかつ「他の擬態者からもピンハネしている」んだから。
          --
          fjの教祖様
          親コメント
          • ・判定者が嘘の判定をしても、判定者自身へのコストは低い

            事こそが、擬態を容易にしている。

            判定者の嘘の判定に対する高い罰則と、正しい判定に対する高い報酬、判定者を複数用意しなおかつそれを資格制にしない(資格制度はそれ自体、「判定者としての資格が無い」存在が擬態する状態を生む)、擬態者に対する高い罰則の4点が基本的に擬態を難しくする。
            そりゃスバラシイ議論だ。
            しかしどうやってインプリメントするのか?

            「判定者の嘘の判定に対する高い罰則」というのは、つまりは「見抜く」の詭弁を
            もっと高次元で繰り返したものに過ぎないと思う。実装上の難問をいちいち挙げるのも空しい。

            あなたが軽蔑してやまない現行制度には、あなたの想像を超える知恵が詰まっているのだ。
            親コメント
            • 「実装上の難問」など簡単だ。

              誤った判断1つは正しい判断10と相殺するようにコストを決めればよい。

              誤った判断かどうかは、陪審員制度と同様に一般人20人が決めればよい。
              判断を下したものは、説明義務を負う。当然、反論者も用意する。

              コスト的に見て、「税金と言う形で金を払ってくれるスポンサー」に説明義務を負うのは、当然のことだ。

              .

              この程度も考えずに「現行制度には知恵が」…馬鹿丸出しだな
              --
              fjの教祖様
              親コメント
              • 誰かさんの言葉を援用するならば、

                ・陪審員が嘘の判定をしても、陪審員自身へのコストは低い。

                事こそが、擬態を容易にするだろう。
                第一次の判定者は、(もしなり手がいるとすればだが、)
                自分の知力をすべて傾けて判定に誤りなきことを期するのではなく、
                ランダムに選ばれるであろう陪審員の知力の程度を予測して、それが
                導きそうな結論を先回りして導くことになる。それゆえ、擬態を見破る
                ノウハウの蓄積ってものがあるとすれば、陪審員制度の導入によって
                そんなものはすっぱり捨てる以外にない。なにしろ最終判定者は素人なのだ。

                「弁護士帝国」なるものを破壊して、阿呆の帝国を作るつもりか?
                親コメント
              • 陪審員は素人だから、専門家よりも判断が誤ると?

                生憎だが、専門家よりも計算機と統計の組合せの方が「2倍以上も」正しい判断を下すのだ。そして専門家の多くは計算機と統計よりも自分の判断の方が正しいと思い込んでいる愚か者だ。つまり、「専門家と計算機」の組合せは、「専門家だけよりはましだが、計算機だけよりも駄目」な状態に陥る。

                計算機に統計処理させた結果に、素人判断を加えた方がよほど正しい結果になる。

                これはもうすでにいくつものジャンルで証明されている事実だ。
                # ワインの出来具合から、野球の新人獲得における活躍予測から、
                # 犯罪者の再犯予測から。おおよそこの傾向がひっくり返っているジャンルは
                # 「まだ統計が適用できないでいるジャンル」だけだ。
                --
                fjの教祖様
                親コメント
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犯人は巨人ファンでA型で眼鏡をかけている -- あるハッカー

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