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582283 journal

Ryo.Fの日記: 少数意見を尊重してこそ民主主義 14

日記 by Ryo.F

元のコメント

> 決まったもんには従え?

その通り。民主的な決定に従わなくて良い、と言うのでは、政治が立ち行きません。
ある程度以上の規模の民主政体になると、全会一致で政策が決まることはほとんどありません。
常に反対者がいるはずです。
反対者がいる政策は一切実現できない、と言うのでは、何も行えません。
ですから、現実的には多数決を行うことになります。

多数決を行ったとしても、反対者がいなくなるわけではありません。
その反対者が、多数決の決定を無視してよい、というのでは、これまた政治になりません。
例えば、自動車は左側通行、という法律を制定したとします。
これにも反対者はいるはずです。
反対者は、この法律に従わず、右側通行でよい、と言うことになるでしょうか?
なりはしませんね。なったとしたら、大混乱が起こるはずです。
これと同じことです。

民主主義では、一旦決定された事項は、次にそれを修正する機会が来るまでは、
たとえ反対者であろうと、自分の意思を枉げてそれに従う必要があります。

> 多数決に敬意を払うのは社会主義、少数意見を尊重してこそ民主主義だと思うのですが・・・。

大間違いです。例えばあなたは、年収上位1%の意見を尊重する政治が民主的だというのでしょうか?

政治は常に多数派のためにあります。
多数の人間を満足させるのが良い政治であって、少数の人間しか満足しないのは悪い政治です。
決してその逆ではありません。

もちろん、多数の人間がそこそこ満足するのであれば、
その余力で少数の人間を満足させるのは、政策としてありでしょう。
でもその政策は、すべての人に不満が残る政策でもあります。
そもそも、全員が満足するような事項であれば、政治という調整は必要ないのです。

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  • by visha (779) on 2005年02月14日 18時35分 (#693588) 日記

    何でこっちに書いちゃうのかなぁと思ってみたり。

    あと、「決まったもんには従え」というのは政治的には正しいですけど、民衆がそう振る舞うことを期待するのは難しいかな。「従ってる振りをする」「知らない振りをする」「逆らうことによって生じる不利益と見比べつつ逆らう」というのはいかにもありそうです。

    ;; というか「正しい」「間違い」で人は動かんように思います。少なくともわたしは動かないなぁ。
    ;; 「正しい」==「俺的利益」なら動きますけど。

    • ま、オフトピ気味ですしね。

      国家は権力を持っていますから、無理やり従わせようと思えば従わせることはできますね。
      とは言っても、その権力を制御する権利も国民にありますから、強権発動とならない場合も多いです。

      実際、少子化対策なんかは、政策方針として少子化解消を決めて、いろんな政策を実施していますけど、
      全然効果がない。しかも、強権発動もない。
      親コメント
  • by ktxg7 (21705) on 2005年02月14日 20時36分 (#693630)
    誘導された [srad.jp]ので来たのですが、ぜんぜん違うとだけ書かれると気になるので、どういう見解か聞かせてもらえます?
    • by Ryo.F (3896) on 2005年02月15日 0時06分 (#693757) 日記
      既に書いていることですが、政治の目的というのは、大多数の人間を満足させることです。
      それは民主主義であろうと社会主義であろう独裁制であろうとと変わりません。

      そもそも社会主義とは何かというと、
      資本主義の生み出す経済的・社会的諸矛盾を、私有財産制の廃止、生産手段および財産の共有・共同管理、計画的な生産と平等な分配によって解消し、平等で調和のとれた社会を実現しようとする思想および運動。共産主義・無政府主義・社会民主主義などを含む広い概念。
      ----- 大辞林
      ということですから、「少数意見を尊重して多数派の幸福を考えない」というものでは全然ないのです。

      繰り返しになりますが、実際に存在した社会主義国家がどうであったか、というのとは別の問題です。
      親コメント
  • まず、筋論として大まかには「おっしゃる通り」と思います。
    しかしながら、単に「決まったから従え」だけでは衆愚といわれてしまう、ということを(あえて?)無視しているようにも読めてしまいます。

    > 反対者がいる政策は一切実現できない、と言うのでは、何も行えません。
    だからといって、一度決まったことなら反対の声をあげることさえ許されない(「強制」というのはそういうことでしょ?)、というのはそれこそ衆愚の典型といえるのではないかと。衆愚ではないというのならば、
    > 次にそれを修正する機会
    がくる可能性を残しておくのは「多数者」の責任でしょう。

    > その反対者が、多数決の決定を無視してよい、というのでは、これまた政治になりません。
    > 例えば、自動車は左側通行、という法律を制定したとします。
    これにも反対者はいるはずです。
    > 反対者は、この法律に従わず、右側通行でよい、と言うことになるでしょうか?
    > なりはしませんね。なったとしたら、大混乱が起こるはずです。
    もともとの(オフトピであるところの)卒業式の国歌問題にもどしてみると、まさしくこの『混乱』が起きたわけですが、この問題はそもそも「国旗国家法」に基づく「とされる」文科省の指導と、憲法にある思想信条の自由との間に「矛盾」がある、と考える人がいるからこそおきたものです。
    Ryo.Fさんが矛盾があると考えるかどうかはともかく、「矛盾がある」と考えること(そしてそんな人がいること)を「多数」の名のもとに抹殺していいわけはありません(それこそ憲法違反だ)。
    となると、その「矛盾」を訴えるのに式事妨害という手段が適当かどうか、となります。これは程度問題なので、ただ起立せずに歌わないのが妨害といえる「ほどのこと」なのか、裁判で判断すべきでしょう。
    # 法の矛盾に対しては、違憲立法審査権があるわけですが、この権利を行使させようと思ったら、「当事者」にならないと門前払いされてしまう現状では、『混乱』を起こさざるを得ない、ということもあるでしょう。

    > もちろん、多数の人間がそこそこ満足するのであれば、
    > その余力で少数の人間を満足させるのは、政策としてありでしょう。
    実際に混乱が起きたのは、数で言えばほんの数校、それを満足させることさえ出来ないほど、余力とやらがないのは、いったい誰なんでしょうか。
    まあ確かに今の教育現場に余力はない、と思います(根拠は特になし)が、文科省の指導に反発することで強硬派の教員が実力行使に出たのもまた事実。国旗国家法には「強制させろ」とは書いてない(尊重と強制は違う)わけで、それを事実上の強制まで持っていった文科省に対抗するためのデモンストレーションとしては、ああいった行為も『あり』と思います。

    また、「少数意見を尊重してこそ民主主義」に対して「余力で少数の人間を満足させるのは、政策としてあり」といってしまうことは、(現実的・結果的にはそうだとしても)多数者のおごりといわれても仕方ないのでは。
    だからこそ、「われわれ多数者は」少数意見を尊重すべきだ、という「多数者の自戒」(おごりへの免罪符でもいいけど)としての言葉、だと儂は理解しています。

    # やっぱり論旨がはっきりしてないな・・・すんません。
    --
    どう発音するのか、それが問題だ。
    • > 一度決まったことなら反対の声をあげることさえ許されない

      という話はしていませんね。
      反対意見を述べることは自由。ただ、一度決定した事項には従わなければならない。

      > 憲法にある思想信条の自由との間に「矛盾」がある、と考える人がいるからこそおきたものです。

      であれば、それを民主的に訂正しなければなりません。
      それまでは、悪法といえども法なので、従わなければなりません。

      > ただ起立せずに歌わないのが妨害といえる「ほどのこと」なのか、裁判で判断すべきでしょう。

      そんな大そうな問題ではありません。
      どの国の国歌であっても、演奏中には起立するし、どんな国の国旗に対してもそれなりの敬意を払う、
      という当たり前のことをしないのは恥ずかしい、というだけです。
      妨害には当らないけど、常識はずれの行動は、往々にして周りの人に不快感を与える、というだけです。
      裁判所の出番ではありません。

      > 多数者のおごりといわれても仕方ないのでは。

      いいえ。政治とはそういうものでしかありません。それが事実です。
      それとも、少数派に支配されるのがそんなに好きなんでしょうか?
      それは寡頭制もしくは独裁制と呼ばれますが。

      もう少し頭を柔らかくして考えてはいかがでしょう?
      政治は多数派のためにある。これは正しい。
      でも、政治のやり方はいろいろ。
      できるだけ多くの多数派を作るような政策を考えることもできるのですよ。
      親コメント
      • > 反対意見を述べることは自由。ただ、一度決定した事項には従わなければならない。
        この「従わなければ」という部分こそが問題なんです。決定事項そのものが間違っている、という可能性を無視しています。間違った「決定」に従うべきや否や、というのが「矛盾」です。
        悪法といえども法ではありますが、それに従わなければならないのは、「法理的に他の法制と矛盾がない」場合です。矛盾がある、と判断できる場合は、そのどちらに従ってももう一方を無視することになるんじゃないですか?
        少なくとも、卒業式での君が代起立を「強制」され、それが憲法と矛盾している、と考えた人が、上位法である憲法に(その人なりに)従った、というだけです。
        それとも、「法律は成立した以上全て法理的に正しいし、役所の命令は全て矛盾も違反もない」とでもいうんですか? それなら憲法にわざわざ違憲立法審査権なんて規定はいりません。

        > であれば、それを民主的に訂正しなければなりません。
        その場を法廷に求めるのは「非民主的」ですか?
        指導・命令が違憲(=矛盾)であると判断した人がいて、その人がそれを「民主的に解決しよう」と提訴する。そうしようという判断が非常識ですか?

        > > ただ起立せずに歌わないのが妨害といえる「ほどのこと」なのか、裁判で判断すべきでしょう。
        > そんな大そうな問題ではありません。
        (中略)
        > 裁判所の出番ではありません。
        それはRyo.Fさんの「主観的な個人としての意見」です。そして、裁判所に提訴があった以上、裁判所は判断します。こんなふうに [cool.ne.jp]。

        > > 多数者のおごりといわれても仕方ないのでは。
        > いいえ。政治とはそういうものでしかありません。それが事実です。
        だから、「(現実的・結果的にはそうだとしても)」とわざわざ書いたんですがね。現実にそうであるのと、理念というか心持としてそうあって欲しい、というのは話は別です。それとも、政治に理念は不要ですか? 現実がすべてですか?

        それに、だれも「少数による支配」を望むなんて書いてません。短絡しすぎです。
        多数者は少数者の存在を常に気にとめておいて欲しい。そして、少数者という「だけ」で不利益をこうむることは衆愚ではないか、と言っているだけです。

        > できるだけ多くの多数派を作るような政策を考えることもできるのですよ。
        とはいえ、あなたが最初のコメントで
        > そもそも、全員が満足するような事項であれば、政治という調整は必要ないのです。
        と言っている通り、少数派は常に存在します。そして、正義がどちらにあるかは多寡の問題ではありません。
        「数は正義」を絶対視すれば(儂はこれを衆愚といっていますが)「多数派」=「正義」ですが、これが必ずしも正しくないことは、選挙によるナチス台頭の例をあげれば十分でしょう。
        衆愚といわれたくなければ、多数者こそが"Nobles Oblige"としての「少数者の存在を気に留める責務」をもつべきではないか、と儂は願っています。
        --
        どう発音するのか、それが問題だ。
        親コメント
        • > 間違った「決定」に従うべきや否や、というのが「矛盾」です。

          はて、だれがその間違いを認定するのでしょう?
          基本的には、民主主義国家においては、国民=有権者ということになります。
          ただ、現実的には、国民の選挙によって選ばれた議員からなる議会ということになりますね。
          では、その「間違い」を定めたのは一体誰でしょう?これも議会ですね。
          その辺りに矛盾は感じませんか?

          国旗・国歌法案やその運用が憲法に違反しているか否か、というのはある意味解釈次第というところがあります。
          絶対に間違いだ、と言える性質のものではないでしょう。
          だとすると、最終的にはやはり、民主的な決定に従わざるを得ないわけです。
          国旗・国歌法案やその運用に反対する人は、次の選挙でがんばるしかありません。
          それが民主主義です。

          > その場を法廷に求めるのは「非民主的」ですか?

          そんなことはありませんよ。
          ただ、民主的に立法された法律に、その法律が有効な間、従わないと言うのは、非民主的です。
          というか、それが許されているような状態は、非民主的を通り越して無政府状態とでも呼ぶべきですね。

          > 判所に提訴があった以上、裁判所は判断します。こんなふうに。

          裁判所が判断を避けているように見えなくもありませんが(笑)。

          > そして、正義がどちらにあるかは多寡の問題ではありません。

          その正義は、一体誰がどうやって定義するのですか?
          神様が正義を与えてくれるわけではありませんよ。

          > 衆愚といわれたくなければ、多数者こそが"Nobles Oblige"としての
          > 「少数者の存在を気に留める責務」をもつべきではないか、と儂は願っています。

          あなたの意見は三分の一程度しか正しくない。
          どんな政体であろうと、主権者はnobles obligeを持たねばならない。
          であれば、あなたの意見はこう修正されるべきです。
          すべての有権者は「少数者の存在を気に留める責務」をもつべきだ
          また、存在を気に留められるべきは、やはりなんと言っても大多数の人間なのです。であれば、
          すべての有権者は「全国民の幸福を気に留める責務」をもつべきだ
          としなければなりません。そうであってこそ、良い政治を実現することができるのです。

          少数者を全く切り捨てない政治など、人間の政治ではありません。神の業と呼ぶべきでしょう。
          理想としての崇高さは認めますが、人間が現実に目指すべき目標にはなりません。
          どこを少数派として切り捨てれば、みんながそこそこ幸せになれるのか。こう考えるのが現実の政治です。
          例えば、高収入層からたくさんの税金をとるという累進課税は、高収入層を少数派として切り捨てるやり方です。
          よく考え直してください。
          親コメント
          • > > 間違った「決定」に従うべきや否や、というのが「矛盾」です。
            > はて、だれがその間違いを認定するのでしょう?

            最終的な認定は(既に書いていますが)裁判所になるでしょう。ただし、裁判所が積極的に矛盾を指摘するわけではなく、矛盾があると「認識」した人が裁判という形でその認識を客観的(? 民主的、といったほうがいいのかな?)な認定とするべく判断を仰ぐことになります。

            > 基本的には、民主主義国家においては、国民=有権者ということになります。
            > ただ、現実的には、国民の選挙によって選ばれた議員からなる議会ということになりますね。
            > では、その「間違い」を定めたのは一体誰でしょう?これも議会ですね。
            > その辺りに矛盾は感じませんか?
            別に矛盾は感じません。「有権者」はあくまで漠然とした集合体であり、個々人の認識のずれやそれらを纏めて現実の法とする際の調整(選挙や党内調整・国会審議などなど)によって、結果的に個々人の認識とそれらの集合体としての法に矛盾が成立することはありうることでしょう。
            議会が間違うことがそんなに不思議ですか? 間違いが起こるからこそ、衆愚という言葉と違憲立法審査権という規定が存在するのでは?

            > 国旗・国歌法案やその運用が憲法に違反しているか否か、というのはある意味解釈次第というところがあります。
            > 絶対に間違いだ、と言える性質のものではないでしょう。
            ということは同時に「絶対に間違いない」とも言えない、ということです。そして、「間違ってるのかどうかはっきりしろ!」と言う声に答えて判断するのが裁判所では?

            > だとすると、最終的にはやはり、民主的な決定に従わざるを得ないわけです。
            矛盾がある、という認識に対して裁判所が認定を行う以上、一度矛盾の指摘が(裁判という形で)行われてからは確定判決も含めて民主的な決定です。法律が出来てはいおしまい、ではありません。

            また、裁判所によって間違いと判断された法の効力は停止するでしょう。もちろん、「間違っている」と判断された場合でも、裁判所が法を破棄するわけではなく、議会が修正もしくは廃止するしかありません。それは議会が国権の最高機関なんだから当然です。
            裁判所の判断に反対する人(=法に矛盾はない!と主張する人)は、そのときに裁判所の判断と整合性を取れるように(廃止ではなく)修正するでしょう。どうすればいいのかは民主的に議会が決めることです。

            > ただ、民主的に立法された法律に、その法律が有効な間、従わないと言うのは、非民主的です。
            いや、だから、何度も言いますがその法律と矛盾する(と認識された)法も「同時に」有効なんですけど(というか、だから矛盾なんですけど)。そちらに従っちゃいけませんか?
            二つの法があり、ある人が「これって矛盾してる」と認識し、一方を「こっちが間違っていると思う」と考え、もう一方「のみ」の遵守を命令された場合、どうするの? ってときに、「命令なんだからとりあえず従っとけ」というんですか? それでいいんなら、上司に殺人を「命令」されたら、とりあえず従っちゃうんですか?
            # 極論だというのは認識していますが、適当な話が思いつかんかった・・・

            まあ、現実解としては判決までは「どっちつかずの状態」を保つ運用がなされる、という辺りでしょう。殺人命令だったら、判断を保留して警察なり何なりに判断を仰ぐことになるでしょう。そういう意味では、混乱を起こすというのが「まずい」やり方であるというのは理解できます。
            # だから、最初に「筋論としてはその通り」と書いています

            > > そして、正義がどちらにあるかは多寡の問題ではありません。
            > その正義は、一体誰がどうやって定義するのですか?
            > 神様が正義を与えてくれるわけではありませんよ。
            多数が与えてくれるわけでもありませんね。正義はその時点ではどこにも存在しない、と言ってもいいのかもしれません。
            だからこそ、多数者には常に「間違っているのかも」と言う自戒を持つ「べきだ」、という主張です。
            # 少数者にはそもそも己の主張を通す権利を多数決で否決されている以上、間違いを犯すための権力もありません。

            > どんな政体であろうと、主権者はnobles obligeを持たねばならない。
            > であれば、あなたの意見はこう修正されるべきです。
            > すべての有権者は「少数者の存在を気に留める責務」をもつべきだ
            > また、存在を気に留められるべきは、やはりなんと言っても大多数の人間なのです。であれば、
            > すべての有権者は「全国民の幸福を気に留める責務」をもつべきだ
            > としなければなりません。そうであってこそ、良い政治を実現することができるのです。

            それは確かにそうですね。同意します。
            --
            どう発音するのか、それが問題だ。
            親コメント
            • > 最終的な認定は(既に書いていますが)裁判所になるでしょう。

              では、その裁判所の権威は何によって支えられているでしょうか?
              民主政体である日本では、最高裁判官を国民が選ぶことになっていますね。
              やはり、最終的には有権者です。

              有権者が選んだ議会の間違いは、基本的には議会で訂正されるものです。
              そうでなければ、有権者がよしとした裁判官が判断するのです。
              しかしそれは、極限定的なものです。

              > そして、「間違ってるのかどうかはっきりしろ!」と言う声に答えて判断するのが裁判所では?

              明らかに違憲とされるものに関しては判断を下せるでしょうが、そうでないものに関してはそうではありません。
              国旗・国歌法案やその運用に関しては、おそらく後者に属するでしょう。

              というか、あなたはどうだと思ってるんですか?

              > # 極論だというのは認識していますが、適当な話が思いつかんかった・・・

              極論過ぎです。下手な比喩は議論の邪魔です。適当でないと思ったのなら、最初から取り下げるべきでしょう。

              > だからこそ、多数者には常に「間違っているのかも」と言う自戒を持つ「べきだ」、という主張です。
              > # 少数者にはそもそも己の主張を通す権利を多数決で否決されている以上、間違いを犯すための権力もありません。

              多数派と少数派が固定されていると思い込んでませんか?
              多数派と少数派が固定的でない、と知っていれば、
              間違っているかも、という自戒は、多数派であるか少数派であるかに全く無関係に持っておくべきだ、となるでしょう。

              > いかなる実力行使も出来ません。

              ウソですね。実際には、実力行使に出る少数派もいます。
              実際、国旗・国歌法案ができても、国旗や国歌に対して適当な敬意を払うという、極常識的なことすらしない人がいますね。
              裁判所がこの法律や運用が違憲であるという判断も下していないのに、です。
              第一、本当に少数派なのか、あるいはまったく権力を持たない、などと言える様な弱者なのかすら定かではありません。

              > が、現実の目標を立てるための重要な指針としては必要ではないでしょうか。

              共産主義者も似たようなことを言っていましたね。
              理想は大切です。しかし、高すぎる理想は現実の政治の指針にはなりません。

              ついでなので言っておきますが、民主主義の理想を追求するなら、共産主義に行き着かざるを得ません。

              > と同じだと思いますが。

              あなたはいったい、何に向かって反論していたんですか?

              まあ、いいですが、私は現実主義者であって、少数を切り捨てる政治の現実を、理想によって糊塗したりはしません。
              その点は断固として立場が違います。
              親コメント
              • > 明らかに違憲とされるものに関しては判断を下せるでしょうが、そうでないものに関してはそうではありません。
                > 国旗・国歌法案やその運用に関しては、おそらく後者に属するでしょう。
                > というか、あなたはどうだと思ってるんですか?
                儂の意見がどうかであなたの意見が変わるとも思えませんが、表明してみるならば、法案そのものについては、国旗は認めますが国歌は正直「どうだろう」と思っています。また、運用はそれこそ「どの」運用かで変わりますが、都教委の指導はやや行きすぎと思います。もちろん、法律として成立している以上、誰がなんといおうが「君が代」は国歌です。ただ、なぜそれが国歌なのか、国歌に敬意を持つということはどういうことなのか、その手順を飛ばして「儀式だから」ということで起立を強制するのはどうでしょう。

                もっとも、この考えに欠陥があるのはわかっています。
                儂のような人間が「国歌に敬意を払いつつそれに否定的な信条を保つ」にはどうすればいいかを提示できていない点です。
                それが提示できるようになるまで、儂はおそらくぶつくさいいながら国歌を歌うでしょう。日本という国そのものに敬意を払いつつ。

                > 極論過ぎです。下手な比喩は議論の邪魔です。適当でないと思ったのなら、最初から取り下げるべきでしょう。
                確かにそうでした。調子に乗りすぎたようです。

                > 多数派と少数派が固定されていると思い込んでませんか?
                集団としては確かに不定形ですが、ある問題にたいして、(おもにメディアの報道による)社会の大勢と個々人のとる態度を比較し、個々人が「今、自分が多数派/少数派である」と感じることは出来るでしょう。
                まあ、その場合も少数者が(少数であることにかかわりなく)「間違っているかも」という自戒は確かに必要です。この点は儂の不見識でした。

                > > いかなる実力行使も出来ません。
                > ウソですね。実際には、実力行使に出る少数派もいます。
                実力行使=無政府状態、と書いたつもりでしたが、言われてみれば確かに不適切ですね。訂正します。

                > > が、現実の目標を立てるための重要な指針としては必要ではないでしょうか。
                > 共産主義者も似たようなことを言っていましたね。
                まあ、大体感づいているとは思いますが儂はなんちゃってサヨですから。「なんちゃって」なんで、論がしっかりしていない分、あなたには延々益体のない議論を吹っかけてしまったわけで、申し訳ありません。

                > あなたはいったい、何に向かって反論していたんですか?
                しいて言うなら「現実主義過ぎる物言い」です。儂の身近には添えう言う考えをする個人が少ないせいか、あなたの物言いには異様な違和感を感じていました。その違和感はどこから来て、どういう差異なのかを知りたい、というのが発端です。
                だから、今回の議論ではっきりと
                > その点は断固として立場が違います。
                というのがわかったのは儂にとっては勉強になりました。儂のわがままな(そして幼稚な)議論にお付き合い頂いたことは、大変感謝しております。
                また、そのせいであなたに不快な思いと余計な手間をかけさせてしまったことについてはお詫びいたします。
                --
                どう発音するのか、それが問題だ。
                親コメント
              • > 法案そのものについては、国旗は認めますが国歌は正直「どうだろう」と思っています。

                あなたが国旗や国歌に対して持つ感想など、ここでは問題ではありません。
                問題は、これが民主的に制定されたことを認めるかどうか、
                それと、この法案が上位の法律、例えば憲法と矛盾するかどうかなのでは?

                > ただ、なぜそれが国歌なのか、国歌に敬意を持つということはどういうことなのか、

                歴史と伝統がそれを支えているからです。それ以外に客観的な理由などないでしょう。
                ところであなたは、『ラ・マルセイエーズ』や『星条旗よ永遠なれ』
                『Ee Mungu Nguvu Yetu(Oh God of All Creation)』が
                何故それぞれの国の国歌であるかが解らなければ敬意を持たないというのでしょうか?
                あるいは、それらの国歌に敬意を持つということが解らないというのでしょうか?

                解るのであれば、何も問題はないはずです。
                解らないとしたら、そういう教育を受けてきていないからでしょうね。
                そういう教育は、学校で行うべきかもしれませんね。

                国旗や国歌に敬意を払うというのは、人に会ったら挨拶をする、という程度のマナーの問題です。
                例えば、「目上の人に『おはようございます』と丁寧に挨拶するのは、俺様の思想・信条に反する」といって、
                子供にもそう教育する教師がいても構わない、という問題ではないのと同じで、
                教師の思想・信条がどうあるか、ということが反映されていい問題ではありません。

                > まあ、大体感づいているとは思いますが儂はなんちゃってサヨですから。

                いいえ。民主主義者はすべて左翼ですよ。そうでない民主主義者は不誠実です。

                > また、そのせいであなたに不快な思いと余計な手間をかけさせてしまったことについてはお詫びいたします。

                不快であれば、わざわざ手間をかけたりしません。その点はお気になさらぬよう。
                親コメント
              • > 問題は、これが民主的に制定されたことを認めるかどうか、
                それは認めます。

                > それと、この法案が上位の法律、例えば憲法と矛盾するかどうかなのでは?
                矛盾するのではないか、と思います。
                まず、歴史と伝統でいえば、日の丸は確か室町時代に既に対外貿易の際使われていたとどこかで読んだ記憶があります。その後も、対外貿易において日本をあらわす旗として使われたらしいので、歴史・伝統の問題はないでしょう。
                対して、君が代のほうはもともとは古今集の歌であり、賀歌としてその後も詠まれていたようですが、国の歌としてさだめられたのは明治です。日の丸ほどの(国の象徴としての)歴史はありません。
                また、日の丸は「日出づる処」の国の意匠としても十分ですが、君が代の歌詞は普通に読めば「君」は天皇ですし、「君が代」は「天皇の治める御代」でしょう。
                戦前は天皇主権ですから明治憲法との整合性は取れていますが、戦後の現行憲法では天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」というあいまいな存在です。主権者でも国家元首でもありません(日本の元首は誰か、というのは諸説あるらしいですが、刑事県法で明記された元首条文が現憲法では削除されていることから、元首は特に規定されていないと考えいます)。
                先の歌詞の解釈と合わせると、元首ではない天皇の御代を寿ぐ歌が果たして国民主権・民主主義の現・日本国の歌として適当かどうか。そんな疑念の表明として、
                > > ただ、なぜそれが国歌なのか
                と書いたんですが、単純な疑問ととられてしまったようです(書き方が悪かったですね)。
                また、他国の国歌については、あまり確かに背景を理解していませんが、だからこそ否定的な意見をもっていません。だから「とりあえず」敬意を持っています。もし否定的な背景があり、それを知ったなら、将来否定的に捉えることもあるでしょう。

                > > 国歌に敬意を持つということはどういうことなのか、
                と書いたのは、それを具体的な形として表すのは果たして「起立して斉唱」と言う形だけなのか、その形は強制されるべきなのか、ということです。椅子に座ったまま心をこめて歌ったところで、個人の敬う気持ちそのものは変わらないのではないですか?
                それを「非常識だから」というだけで否定していいんでしょうか?

                > そういう教育は、学校で行うべきかもしれませんね。
                既に「愛国心」教育は始まっているではありませんか? 国旗国歌の「強制」はその表れです。
                先に「都教委の指導は行きすぎではないか」と書いたのは、それが「形」の強制だけ先走ってしまい、肝心の「国を愛する心」とは何かという地道で大切な教育が置き去りにされていないか危惧した上でのものです。

                > 例えば、「目上の人に『おはようございます』と丁寧に挨拶するのは、俺様の思想・信条に反する」といって、
                > 子供にもそう教育する教師がいても構わない、という問題ではないのと同じで、
                そういった教師がいたことも事実ですし、そんな人についての処分は妥当でしょう。
                ただし、それが全てではありません。儂がこの問題を意識しだしたのは、2004年春の都立高校での騒動ですが、生徒も都教委から起立するようにとの指導が来ていることを知っていたでしょうし、ここにあるように [university.main.jp]「校長が「君たちがしっかり歌わないと、先生方が処分を受けかねない」と生徒たちに言った」ということからも、起立斉唱の指導はなされています。
                また、ほかの記事 [mainichi.co.jp]にはこうあります。

                だが、くだんの板橋高校を今年卒業した男子生徒はこう言い切る。

                「『国歌斉唱』の時に座ったら、来賓の都議会議員が『信念がない者は立ちなさい』と大声を上げました。まるで僕らが考えなしみたいに言われて腹が立った。前日に担任の先生は『立っても立たなくてもいい自由がある』と言いましたが、先生に言われたから座ったなんてことは絶対ない」

                この言葉が事実なら、校長から「立つように」と強く指導されている上で、(校長に「処分される」といわれている)教師から「立つも座るも自由だ」といわれて、それでもなお「先生にいわれて座ったわけでない」と生徒は言っています。ならば、座ったのはあくまで生徒自身の思想・信条でしょう。
                まず確認したいんですが、生徒自身の意思として座ったままであった、このことについては、あなたは「非常識」とは別に、思想信条の自由の(生徒としての)表現として認めますか?
                その上で、この生徒の行動には「立つ立たないは自由」とした教師の思想・信条は懲罰の対象となるほどに反映されているとお考えですか?

                最後に

                --
                どう発音するのか、それが問題だ。
                親コメント
              • > 元首ではない天皇の御代を寿ぐ歌が果たして国民主権・民主主義の現・日本国の歌として適当かどうか。

                仮に『君が代』の「君」が天皇陛下を指すとしましょう。陛下は「国と国民統合の象徴」なのですから、陛下を寿ぐことは、「国と国民統合」を寿ぐことです。どこが憲法に反するというのでしょう。少なくとも、誰もが憲法に反すると断言するような性質のものではありません。だとすれば、それは裁判所が違憲判断を行うようなものでもない、ということです。
                結局、『君が代』に反対するのであれば、それは選挙を通して頑張るしかなく、議会でそれが覆されるまでは、『君が代』に敬意を持って接しなければならない、ということです。

                > もし否定的な背景があり、それを知ったなら、将来否定的に捉えることもあるでしょう。

                繰り返しますが、あなたの個人的な感想など、ここでは問題ではありません。

                > その形は強制されるべきなのか、ということです。

                定型は、定型なりの意味があります。

                > それを「非常識だから」というだけで否定していいんでしょうか?

                ほとんどすべての場合、否定してしまって問題ありません。非常識が許されるのは、非常識であってもなお、その価値が認められる人だけです。そして、ほとんどすべての人は、そんなに特別な人ではありません。
                私は現実主義者なので、個性の尊重などという美しい理想で、現実を糊塗したりはしません。

                > 既に「愛国心」教育は始まっているではありませんか?

                私は愛国心など問題にはしていませんよ。

                > ならば、座ったのはあくまで生徒自身の思想・信条でしょう。

                そんな下らない事を、思想・信条と呼ぶべきではありません。単に礼儀知らずです。生徒の多くが礼儀知らずであれば、彼らを指導した先生の指導力が疑われますし、評価が下がるのは当たり前です。

                個人的に国旗・国歌が嫌いでも、自分の思想・信条に合わなくてもそれはそれで自由です。しかし、国旗・国歌法案は民主的に制定され、国旗・国歌は憲法に反するとは言えません。民主的に制定されたものである以上、自分の思想・信条とは別に、国旗・国歌を認めなければなりません。それが民主主義だからです。民主主義者なら、そうすべきです。
                もしあなたが、非民主主義者なのであれば、それはそれで構いません。しかし、そんな人が現憲法を根拠に国旗・国歌を否定すべきではありません。
                もし民主主義者であってなおかつ、礼儀知らずな態度を採る高校生がいれば、その思い上がりをたしなめるのが大人の役割です。お前にそれほどの価値はあるのか、と。お前は一体何を成したから自分に価値を認めろ、といっているのか、と。
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