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日記

aruto250の日記: 「かわいそうランキング」に思うこと 2

日記 by aruto250

人間は、苦しんでいる誰かがいたとして、その相手が同情に値すると判断した場合は優しくするが、同情に値しないと判断した場合はとことん冷酷になる。このとき、同情に値するかどうかを判断するのは、建前上はその当事者がどのくらい頑張ったか、どのくらい止むを得ない事情を抱えているか、といったことによる、となっているが、実際には、その当事者が自分にとって好ましいかどうかで判断しており、「努力が足りない」「単なるワガママ」といった理由は自分の好みを正当化するための後付けの理屈でしかない。

こうした現象に、最近Twitter上で「かわいそうランキング」という名前を付けた人がおり、命名者はその概念と呼び名の拡散に努めているようだ。確かに実態をよく表しているいいネーミングだと思うし、このまま拡散の努力を続ければきっと定着するだろうと思う。しかし、せっかくこんないいネーミングを考え付いた当人やその周辺は、発見から3ヶ月ほどが経過しても未だに「『かわいそうランキング』で色々なものが説明できるぞ」と、新しい物差しで色々なものを測るばかりで、「かわいそうランキング」という概念を確立したその頭脳でもってランキングの正体を考察したり、ランキングを解消する方法や、あるいはそのようなランキングが存在する社会でも受け入れてもらえるような救済方法を模索する、という方向には進んでいないのが非常に焦れる。

個人的には、こうしたランキングがあること自体は「今さら」というところで、人間は気持ちに振り回され、気持ちのままに行動しつつもその自覚がなく、後付けの理屈で自分を正当化するし、その理屈が後付けであるという自覚も持てないのだ、ということは、既に嫌というほど思い知らされている。宮崎勤の事件でオタク・バッシングが社会現象になるなかアニメ雑誌を買っていた人間としては、嫌いな人間の「気持ち悪さ」をしつこくあげつらって嫌悪感を正義の情熱に転化するやり方なんて散々見てきた。また、喪板(電車男以後の毒板でなく)にお世話になった人間としては、人間が他人を評価するときには理屈や建前なんて後付けで、実際には気持ちが全てを決めて、にもかかわらす気持ちで決めた本人にはその実感がなく、後付けの理屈で自分が感情的に行動していることから目を逸らす、どころか自分が感情的に行動したことに気付きもしないのだということも学んだ。池田小事件や秋葉原通り魔事件では、加害者がどれほど事情を抱えていようと、社会が安心を得るためにはとにかく気に入らない相手を異常な怪物として自分達から切り離し、同情の余地を努めて無視するのだということも学んだ。そして、ゼロ年代中頃から社会問題としてメジャーになりつつあった発達障害の問題では、「当たり前」と思っていることができない人間への同情の無さと、「当たり前」があまりにも当たり前であるがために、それが相手に通じないということが、相手の(同情の余地のない)落ち度としてしか知覚できないということ、「当たり前」が当たり前でないということについては、発達障害の当事者を含めた大半の人間は想像することもできないし許容することもできないということが分かった。ここまで分かれば、もはや人間のこうした同情と正当化の仕組みが社会にいくつものエアポケットを生むものであることは明白で、ついでに言えば、自分はそのエアポケットに半ば落ちかけた状態だった。

そこへ持ってきて2012年の「動植物は見た目の美しさや有用性の高いものが優先的に保護される」という研究結果(The new Noah’s Ark: beautiful and useful species only.)は、こうした人間の同情と正当化の仕組みがエアポケットを発生しうることを示唆するものであったし、2015年の「キモくて金のないおっさん」問題では、実際に人間社会にエアポケットが発生しており、そこに落ちて苦しんでいる人間がいることが周知された。「かわいそうランキング」は、そうしたエアポケットが社会にいくつも存在することを明らかにし、またそれらエアポケットの原因を端的に表すよい概念に思うけれど、仕組みそのものは既知のものだし、色々なものに物差しをあてて楽しむだけでなく、そろそろその先へ進んで欲しいところだ。まあそれなら自分で考えろと自分でも思うのだが、自分の貧弱な頭ではどうにも良い考えが浮かばない。同情と正当化の仕組みに気づけたのだって、当事者だったから否応なく気付けただけで、「ヒ工ラルキーは上からは見えない」にもかかわらず「かわいそうランキング」の存在に気付いた人々の方が圧倒的に物事が見える人のはずだ。

しかしこのランキング、どうやって対処すればよいのだろう。ランキングをなくすことはほぼ不可能に思えるので、やはりランキングがあっても機能するような救済の仕組みを作るのがよいのだろうが、果たしてそんな仕組みは作れるのだろうか。認知の仕組みの穴をついてランキングを弱体化させたり、あるいはこうしたランキングは人間の心理の落とし穴なので気をつけましょうと周知してランキングへの抵抗力を社会に持たせる必要がありそうなので、こうしたランキングの認知心理学的な仕組みの解明は必要そうだ。また、救済の仕組みを整備するにしても、野生のヒトの習性からかけ離れた仕組みは受け入れられにくく長続きしなさそうなので、ヒトの習性についてもっとよく知る必要もありそうだ(野生のヒトの習性は、複雑化した今の社会では見えにくくなっているため、類人猿の研究が役に立つかも知れない)。とまあ、「かわいそうランキング」に限らずだけど、人間の陋習を明らかにし、それは頭で考えたつもりであっても実際は動物の本能で誘因されたに過ぎず、長期的には良くないものですよ、ということを提示したうえで、その陋習を克服していこうじゃないですか、という方向へ持って行きたいし、そこまで分かっていれば人間はよい方向へ舵を切れると思いたいのだけど、うーん、これこそ楽観的に過ぎるという気もする。まあいずれにしても、色々なことの「頭で考えたつもりであっても実際には本能で誘因されたに過ぎない」というところの仕組みが今は徐々に解明されていっている段階で、いずれ完全にその仕組みが解明されるまでは、そうした方向の提示すらできないのだな。

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  • かわいそうって認める判断基準は個人の感情だけではなくて、社会的抑圧からも生じていると思います。
    仮に個人的感情でかわいそうだと認識が浮かび上がってきても、社会的には「キモくて救済の対象ではない」と見なされている
    人達に救いの手を差し伸べたらどうなるか。その場合は救う側に社会的抑圧に対抗するだけの力が必要になってくるでしょう。
    それは個人で抗うにはかなりハードルが高い。

    これはイジメの構造にすごく似ているかと思います。特定のグループが社会を支配して他のグループはそれに従っているという
    構図。ある個人が支配層から敵視されると、そうは思っていないグループの人達も同調してその人物を敵視して排除に回る。
    支配層の意思に反することをしてしまうと今度は自らが排除の対象と見なされる。それを回避するための防衛本能として感情では
    排除すべきだと思っていなくても排除に回るか、出来るだけその問題に関与することから避ける(いわゆる見て見ぬ振り)。
    エアポケットに落ちている状態というのは支配層からは排除の対象と見なされ、それに同調せざるを得ない他のグループからも
    見て見ぬ振りをされている状態かと思います。

    たぶんこのへんはヒトという動物の「群れ」という習性から来ているんだろうとは思うので、こっちの側面からも見ていくと何か
    対処の仕方が出てくるかも知れません。

    • 助けたいけど周囲に合わせるために助けられずにいる、というのは、確かにそういうのもありそうなパターンに思います。排除される側に回らないまでも、そんなに助けたいなら自分だけでやれば?と言われてしまうとか。個々の事例を詳しく知ればその事例の主を同情すべき身内と認識できるものでも、総体として見ると自分とは異なる群れの出来事として、同情の対象からは外れてしまう、みたいな仕組みもあったりしそうです。

      ヒトという動物の習性かも知れないというのは私も同意見です。人間の行動の、理性的な判断の結果と思われているもののかなりの部分が、実は本能的な習性に合理化のための理屈がくっついたものなんじゃないかと疑っています。そういう点でも、「群れ」のシステム、特に何をもって同じ群れと認識しているのかについて、すごく興味があります。いわゆる発達障害の共感能力の話とか、グローバルエリートとそれ以外の間の断絶とか、色々なところに関連する重要な問題に思えて仕方ありません。

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