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Pravdaの日記: 謎の七支刀

日記 by Pravda

宮崎市定『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公文庫)。現在は絶版ですが、古本でも手に入れるべき実に面白い本です。中公新書版ならAmazonマーケットプレイスで入手可能です。

七支刀(しちしとう)とは、奈良県の石上(いそのかみ)神宮に保存されている、両側から枝が3本ずつ互い違いに出た形状の刀で、そこに表裏61文字(62文字の説も)の銘文が彫り込まれており、その解釈や判読をめぐって明治時代初期から現在まで論争が続いています。しばしば写し間違いが起きる書物ではなく、石や金属に彫られた金石文なので、解読価値が非常に高いのですね。

宮崎市定(1901-1995)は東洋史学の泰斗ですが、「七支刀は日本古代史上、避けて通れぬ重要な問題だが、同時にそれは東洋史上にも関係してくる」と研究に着手し、昭和57年(1982年)に研究論文を発表。この時に80歳をこえていた宮崎先生の武器は中国史で磨き抜いた文献学的な研究方法。

「第一章 七支刀研究の回顧」は、先行研究の紹介で若干かったるいのですが、「第二章 七支刀銘文の研究各論」での、先行研究を自在に駆使しつつ判読していく論理の流れは、まるでミステリー小説を読むかのような手に汗握る面白さ。この七支刀は泰始四年(西暦468年)の「倭の五王」の時代に百済から贈られたもの、と結論づけています。

「第三章 七支刀銘文の影響」では七支刀と同様に、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄刀の銘文、さらに熊本県の江田船山古墳より出土した大刀の銘文を判読してゆきます。

「第四章 七支刀銘文の源流」で、刀に銘文を刻む風習は中国では漢代からあったものの、長文の銘が彫られるようになったのは五胡時代末期の大夏天王だった赫連勃勃以降であることを示し、「第五章 五世紀東亜の形成」でその時代の東アジア史を概観して、百済から七支刀のような宝物を贈られても不思議ではなかった状況を語ります。

そして、「あとがき」では、

七支刀銘文六十一文字に、とにもかくにも、一字残らず文字を埋めたのは私が最初である。そして読み下しただけで、それ以上の多弁を要せずして意味が疏通するするをえたのも、おそらく私が最初であろう。

と、その研究成果を誇っています。百済から贈られた七支刀の銘文はいわば「国書」にあたり、拙劣で意味が苦渋な漢文など彫るわけがない、という見方ですね。

しかしこの説が国史学会に認められたかというと、「文庫版あとがき」に曰く、

この通り前後を貫通して合理的に説明したものは従前嘗て無かったところである。そこでこの書が一たび世に出れば、日本古代史の一節は当然書き換えられるべきものと窃かに期待していた。ところが実際は、一部の熱心な賛成者があるにも拘わらず、学界そのものの反応は全く冷淡で、いわば完全に無視されてしまったのである。

最近は「完全に無視」されなくなったものの、ヘンテコな反論があるようです。

しかし、この本の最大のミステリーは、志賀島から発掘された「倭奴国王印」について宮崎市定が、古文書学では第一人者と称された中村直勝教授から「あやしいな。なんせ、ほんま物が二つもあるんやで」と聞かされた点でしょうか。

金印の真物が二個存在するとは、聞きずてならぬ発言のようだが、ただし、それなりの理由があることは、私にも後になって分った。昭和五十五年八月、京都高島屋において朝日新聞社の主催により、「邪馬台国への道」展が催されたが、その折の注意ぶかい観察者ならば、なにかしら、はてなと気づくことがあったはずである。ただ、現今の私としては、これ以上にはなにもいい足すこともできない。

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