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Pravdaの日記: 〔書籍〕 決闘裁判

日記 by Pravda

山内進『決闘裁判 ― ヨーロッパ法精神の原風景』(講談社現代新書、2000年)、少し再読。たいへん面白い本なのですが、現在は絶版のようです。著者の山内進氏は名著『北の十字軍 ―「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社選書メチエ、1997年)も執筆された、西洋中世法史・法文化史の研究者で一橋大学教授。

以下、紹介文および目次概要。

権利と正義を求め、生死を懸けた苛烈な裁判。究極の自力救済の戦いは、なぜ中世キリスト教世界で広く行われたのか。欧米型当事者主義の本質に迫る。

■ 目次概要

  • プロローグ 『ローエングリン』──神の裁きとしての決闘
  • 第一章 神判──火と水の奇跡と一騎討ち
  • 第二章 決闘裁判──力と神意
  • 第三章 決闘裁判はどのように行われたか──賢明な仕方で運用される愚かなこと
  • 第四章 決闘裁判の終焉と自由主義
  • エピローグ 正義と裁判

まず決闘裁判とは、争う二者のどちらが正しいかを決める裁判として、両者に決闘させるもの。なんとイギリスでは法制上、19世紀初頭まで正式に廃止されていなかったそうです。なお、「第三者を介さず、当事者だけで決着をつけよう」という私闘としての決闘は、決闘裁判には含まれません。

古代ゲルマン民族の間では、正邪を明らかにする神判として、主に以下の4つが行われていたそうです。

  1. 熱湯神判 嫌疑をかけられている者に熱湯の中にその手を入れさせ、火傷の程度を見て判定を下す方法。
  2. 熱鉄神判 灼熱の鉄を持たせたりその上を歩かせたりして、火傷の有無で正否を決定する方法。
  3. 冷水神判 水の中に証明者を入れ、浮かべば有罪、沈めば無罪とする方法。
  4. 決闘裁判 法廷で両当事者に決闘用の武器を持って戦わせ、その勝者を正しい者とする方法。

フランク王国が成立し、カール大帝がキリスト教を国教と定めてから、カトリック教会も当初はこの神判を容認していましたが、11世紀以降、「教義上、熱湯や熱鉄などの非合理的な審問に神の名を使うわけにはいかない」と、ローマ法を基礎とした、文書による証拠や証人による証言を重視する裁判を普及させます。一方、決闘裁判は残ります。ヨーロッパ中世、教会や修道院も領地を持ち、周辺の諸侯や騎士たちとけっこう頻繁にトラブルがあったので、その解決法として。

やがてヨーロッパ大陸ではローマ法ルネッサンスにより裁判官が審理の中心となって、さらに自白のための拷問を合法とするローマ・教会法的糾問訴訟が一般化する反面、イングランドでは証人の喚問として始まった陪審による裁判が発達します。なぜ大陸とイングランドで違いが表れたか、この本にはハッキリと書かれてはいませんが、大陸ではフランスを筆頭に強い王制と官僚制が発展したのに対し、イングランドは人口が少なく王権も早くから掣肘されていたあたりにヒントがあるのでは?、とオボロゲに考えています。

決闘裁判は野蛮か?、という問いに、この本は「中世においてはノー」と答えています。有力な一族同士が土地や名誉、血の復讐をめぐって私闘を行えば大勢の死傷者が出ます。いっぽう決闘裁判の場合、主君のほか立会人が見守る中「聖なるリング」の内側に決闘士二人が入場しフェアな戦いを誓ったあと、勝負を始めます。形勢が明らかになった時点で「和解」を結ぶことも可能で、イングランドでは決闘士が死ぬまで行われることは、ほとんどなかったそうです。私闘に比べればまだ平和的解決法といえるでしょう。

この本は、基本的に西洋中世法史の書籍ですが、日米の裁判の、日本型実体的真実主義とアメリカ型当事者主義の違いについてエピローグで触れており、興味深いので引用します。

実体的真実主義とは、日本の刑事裁判における基本概念の一つで、一般的には裁判のもとで犯罪に関する真実の究明を図ろうとする立場ということができる。〔中略〕ここでは、真実を明らかにし、処罰すべきを処罰し、救うべきを救うのが正義であり、この正義を実現するのが国家司法の目的とされる。したがって、国の役人である裁判官は、正義を実現するために積極的に訴訟を指揮し、真実の解明に努めなければならない。
ところが、当事者主義はそれとは違う。事件の解明よりも、原告・被告あるいは検察官・被告人という裁判の具体的当事者の勝ち負けをフェア・プレイに基づいて決定することに主眼が置かれる。ここでは、自己の利益と権利のためにフェアに戦うことが正義である。裁判はあくまで、争っている当事者のために存在する「個人的事項」にすぎず、双方の主張に基づいていずれが正しいかを決めるのが目的である。事件の真実はその限りで問題になるが、両当事者が納得すれば、事件の真相にいっさいふれることなく判決が出されても一向に構わない。〔p.232-233〕

アメリカの裁判の基礎である当事者主義は、イングランドの決闘裁判の伝統をひいており、検事と弁護士の丁々発止の弁論合戦は、法廷という名の「聖なるリング」での決闘士二人の戦い、ということでしょうか。

逆に、黒澤明監督の映画『羅生門』(1950年)が米国で驚きをもって迎えられたのは、演出や撮影方法もさることながら、検非違使庁や登場人物がひたすら「真実」だけを問題にし、裁きの結果に全く無頓着な点があるかもしれません。アメリカ人にとって法廷とは、本質的にまず第一に裁定を下す場所であろうからです。

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