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YoRの日記: 昼寝城 2
室町時代、うちの実家のあたりを支配していた豪族に寒川氏という一族がいる。
自分もその後裔の一人であるらしい。母方が子孫を名乗っているのである。本当かどうかはともかく。
その豪族が拠っていた城の名前が「昼寝城」。謂われは所説あるのだが、「昼寝してても落城しないほど険阻な城である」というのもその一つで最も有力。
その他、嘘っぽいのに、平家の落ち武者が源氏の追っ手に追われている際、あまりの疲れに木の上に登って昼寝している間に、追手が通り過ぎたのでそこに城を築いたというのを聞いたことがある。これによれば寒川氏は平家の縁者であるのだが、これは嘘っぽい。まあ、あのあたりは平家の支配下にあるので源氏勢力との争いでは平家側についていたというのは大いにあり得る。
この昼寝城が落城したことがあるという伝説がある。落ち武者に関わる悲しいお話もある。しかし、実家のある自治体が合併前にまとめた町史によれば、落城の事実はなかったのだそうだ。
けれど、この落城にかかわる話が回りまわって長曾我部氏の四国統一の端緒につながっているらしい。それを紹介する。
昼寝城は阿讃山脈の香川県側にある女体山に築かれていた。この近くには四国八十八か所の結願時である大窪寺がある。寒川氏はこの城から見下ろせる地域に勢力を張っていたと考えてよい。また、小豆島もその勢力下にあったそうだ。
さて、それを攻め落としたのは、海部氏とある。海部とは「かいふ」と読み(元総理大臣の海部氏と同じであるので、彼の先祖はこの一族であるかもしれない。ほかの同じ字の地名は「あま」「あまべ」などと読む例が多い。が、旧尾張藩士の海部氏がここを発祥とするかまでは私は調べていない。)、勢力は阿波国海部郡にあった。ここは阿波国の最南端である。
つまりである。海部氏はなぜか阿波国の弘法大師が修行したという険しい山を越え、吉野川を越え、阿讃山脈を越えて攻めてきたことになる。一応、三好氏による要請での出兵らしいのだが、それにしてもなんで一番遠いところの豪族に頼むのか謎である。船を使って、というのなら昼寝城よりも前に通る寒川氏系列の城がいくつもあるので、背後から襲ったと考えるしかない。(それなら吉野川沿いが本拠地である三好の手持ちの勢力の方が近いのに…)
さて、海部氏は昼寝城を落とし、故郷へと帰るわけであるが、ところが返ってきたときには、本拠は長曾我部元親の勢力下にあった。
というのも、これに先立って、元親の弟が有馬への湯治に行く途上を襲い、殺害したという事件がある。当然元親はこれを恨みに思い、昼寝城攻略で手薄になった海部を襲ったのである。これ以後、この地域は香宗我部氏が根拠とし、長曾我部氏による阿波攻略の拠点となったのであるという…
寒川と香川 (スコア:1)
相模の国に寒川と香川って地名があって(両方相模線に駅がある)
讃岐には寒川郡と香川郡があって
国人に寒川氏と香川氏がいて、それぞれ寒川郡と香川郡に本拠を持つ
#寒川氏を戦国大名に分類するのはちょっと無理があった
すごく似てるんだけど
香川氏の名は相模の香川に由来し、香川郡とは関係ない(香川郡を領したのは南北朝期)
寒川氏の名は寒川郡に由来し、相模の寒川や寒川神社とは関係ない
でも相模の寒川や寒川氏は「さむかわ」で讃岐の寒川郡は「さんがわ」
ってのが非常にややこしい
寒川氏で思い出した
Re:寒川と香川 (スコア:1)
その辺りは私も知ってます。讃岐守護代香川氏は相模鎌倉氏族出身で、この一族から長尾氏(謙信などを輩出)や寒川(さむかわ)氏、梶原氏などが出てますね。
また、私の実家辺りにも長尾という地名があり、この付近に鎌倉氏族の長尾氏とは別の長尾氏が存在したらしい(讃岐寒川氏や十河氏と同族の植田氏族(讃岐橘氏)との伝承があります)とも聞きます。
また、讃岐国寒川郡の由来が実は相模国の寒川神社に由来するのでは?という説も存在するらしいです。
不思議と相模の国との縁があるのかもしれません。