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記事とは直接関係ないのですが。
ワープロ(ハードとソフトを含めて)で書く日本語とペンで書く日本語の間には、根本的な違いがあると思うのです。
(コンピューターでの)日本語の入力は、まずひらがなで入力して、それから仮名と漢字が混じった文章に変換します。この過程、つまり、ひらがなで日本語の文章を書いている段階が発生する、と言うのは、それまでの日本語の書き方と根本的な違いがあるのではないかと思うのです。 ペンで書くと言う事が意味するのは、書きながら、同時に確定されている言葉の流れ(リズムとも言えるかも知れません)によって次々と言葉が紡ぎ出されていく、と言う世界のどの言語にも存在する、言葉自身に内在する「力」がある事です。マイナーな引用で恐縮ですが、日本語以外でも、極端な事例として、ポール・エリュアールの「自動筆記」等が挙げられます(端的過ぎるかも知れないので、この例は無視して下さって構いません)。 しかし、この「変換」と言う方法は、これに一つの断絶をもたらすものです(善し悪しを主張するものではありません。事実としてそうだ、と言う事です)。表意語圏独特の問題であるだけに、(ワールドワイドな)市場の論理だけに任せて良い事でもないと思うのです。 欧米で生まれたタイプライターの進化形であるワープロと、そこに仮名漢字変換と言う作業が加わる日本のワープロとは、質が異なるのではないでしょうか。
言い換えれば、この場合は、単に仮名漢字変換エンジンの問題と言えるのかも知れません。今日一般に普及している連文節変換エンジンが最良のものなのかどうか、と言う事も問えるのかも知れません。例えそれが、最大公約数的に需要を網羅していたとしても、それが日本人の言語観に極めて大きい変化をもたらした事は間違いないでしょう。漢字で物事をイメージすると言う事が将来的に無くなるのかも知れません。これは、価値観や思考方法にとって本質的な事の一つです。また、非常に端的な事例ですが、Webにおいては、変換ミスによるtypoへの拒否感が減ったと言うのは代表的なものでしょう(例えば/.Jでは、書いてある内容を特に重視するので、こうした間違いを指摘する人はいないでしょう?)。
この辺り、ATOKやMS-IMEなどのFEPを作っている会社の功罪は大きいと思います。今後の製品作りには、こうした事への考察がなされて欲しいと思います。例えば、連文節変換と言う以外のアプローチがあるかも知れないのです。 (義務)教育の問題でもあるでしょう。こうした事への取り組みがなされるべきだと思います。
現在、作家でワープロを使って執筆している方は結構います。彼らの作品を、半分機械任せで作られたと批判するつもりはありませんが、この事に言及している作家があまりいないのも事実です。
/* 文学部でまさにこれを研究しているのでID */
SKKは興味深いと思います。「連文節変換と言う以外のアプローチ」の一つだと思っています。
リンクは参考になりました。少し(だいぶ?)前の月刊アスキーでも、ジャストシステムへのインタービューで似たようなことが出ていましたね。色々考えているのだとは思います。
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0331/gyokai53.htm より。
「テレビ、新聞、雑誌は、すべてが標準語。そして、ジャストシテスムが開発してきたワープロソフトも、もともとビジネスシーンで使われる標準語での使い勝手を考えてきた。だが、本当にそれだけでいいのだろうか。我々はそこに疑問を持った」
「ジャストシテスム」ってあんた。
#408300 [srad.jp]に、 >うわぁ、ダブった(笑)
とあるので、恐縮ですが、僕の考えは、同じようなもの [srad.jp]になってしまいます。
安部公房は、同時代の作家があまり着目しなかった、文章の見た目にも注目した数少ない日本人の作家の一人ですね。
Futaroさんのエピソードも、単に正負それぞれの側面だけでなく、より深い考えにつながるので、とても興味深いエピソードです。参考になります。
/* こういう話に出会えるので、/.に書いて良かったと思います。 */
但し、かな漢字変換を用いて書く場合、Style 的な面、例えば漢字が多めになるなどの影響が出るということは認識しています。
確かに、比較が難しい、データを取るのが難しいのがこちらの論拠の難点です。
しかし、示されている根拠は、短期間、表面的、データが取りやすいものでは無いかと思います。そうでない影響は、今は表面に出なくとも、相当な時間の後にはデータとなって現れもします(歴史研究発祥の手法だと、アナール学派とかそうですよね)。
語弊があるかもしれませんが、そういった側面から、文学部の何人かの研究者はアプローチをかけます(そうでは無い人ももちろんいます)。
時間はかかるし、観念的だし、なかなか成果は出ないですが、少なくとも、とんでも説として切るのはどうかと思います。
文系・理系区別論と言うわけではないのですけれど。
それに、スタイルとセマンティクスは、そう感じるほど近いものとは思っていません。極端なスタイルの違い、例えば翻訳されたもの、の場合確かに内容も変化しますが、それはスタイルの違いの極端さに比しずっと微妙なものに止まります。正直、口語体の文章のスタイルに大きな意味があるか、といわれると唸ってしまうところがある。
根本的に違う事が、必ず識別可能を意味するものでは無いと思います。一概に全てそうだとは言えないのですが、そこで即座に識別できる差異は、本質の予兆になるかもしれません。
親コメントでも書いた通り、思考方法、価値観、そういった目に見えないものを変えていく事が注目すべき事なのです。無論、その結果、将来の日本人が作る日本語は今と比べれば大きく変わり、その点においては識別可能と言えるかもしれません。
口述筆記については、こうする(こうしなければいけない)事で文章を頭の中で組み立てる人と、書く作業をする人は別になりますが、ここで問題にしているのは、考える人と書く人が同じ場合の話だと思います。
例えば、多くの文学作品(小説とか詩とか、現代批評と呼ばれるものもそうでしょう)では、一つの言葉に多重な意味を付与したり、連想をうながしたりします。一つの言葉をストーリー全体と関連させ、凝縮や伏線等の意味合いを持たせたりします。それは、推敲の結果であったとしても、最初から確定された文章で構成されたものばかりではないです。こうした言葉同士のつながりを作る言葉のリズムを、作品の本質として最重要と見なす作家や詩人は極めて多いですし、このリズムは、書きながら次の言葉が生まれることであると言う作家も非常に多いです。
文学作品は特異な例ですので、一般の人にとっての方が重要ですが、これもやはり影響はあるはずです。
変換性能に文章の作り方が依存すること(性能が良ければいいということではなく)だけでなく、入力の仕方(繰り返しの事例で恐縮ですが連文節変換と言うアプローチもそうです)も、FEPが担当している事も言語の使い手の、「頭での思い浮かべ方」を変えるのでないでしょうか。
IMEが悪いと言うのではないです。ですが、IMEに思考を左右される度合いが、根本的なものであるのです。
イメージできる文字がかえって増えると言う考え方には同意できません。人は、多くの文章(文学作品に限らず)を読んで、「国語力」を付けるからです。
増えた(増える)ものより、失った(失う)ものが多いと思うのです。
どちらがより多様で豊かな言葉を使う力につながるかを考えれば、どちらがより影響が強い、と言う事は問題ではないです。どちらも、必ず接するものですから。 そこで、元コメントの「(義務)教育の問題でもある」と思うわけです。
多様で豊かな、とは理詰めではないですが、言葉に関わる議論では避けては通れぬ基準だと思います。どんな基準だ?と言う話になると、記事の趣旨からますます離れて行ってしまうような気がするので、微妙ですが・・・。
確かに一長一短です。
しかし、一方が一方を駆逐する可能性も考えれば、今のままではいいとは思えないのです。特にこの問題はそうなる可能性があながち低くはない。文化の駆逐がどれほどの罪悪かはよく言われますが、これもその一つになりかねません。
文章を考える事と、書く事の境界は微妙です。それだけに、その変化に気付きにくい。
なるほど。参考になります。
ここまで連文節変換が普及してしまうと、そうでは無いアプローチがなかなか広まらないのも問題です。
また、異なる変換方法が広く知られたとして、それらが混在する中で、どのように使いこなすか(使い分けるか以上に重要と思います)が日本語の使い手として考えるべき問題になるのかも知れないと思っています。
どうですかね。両方聞きますが。賢いエンジンをくせまで把握していれば連文節の方が効率良く打てますし。僕も環境によっては単文節の方が打ちやすい時もあります(変換性能が悪かったり、学習能力が無いものとか)。
少なくとも、以前よりは連文節方式は普及していると思います。自然言語処理の需要も考えれば、連文節変換の性能はこれからはるかに向上するでしょう。長い目で見れば、単文節方式に比べて、連文節方式の優位は揺るがないです。
それよりも問題なのは、単文節、連文節に関係無く、再掲で恐縮ですが、それが「日本人の言語観に極めて大きい変化をもたらした事」です。そのことは、親コメントでも触れた通りです。
単文節方式、連文節方式に関わらず、今の日本語入力そのものを取り上げたくて、連文節を出したのは例の一つでした。
推敲の話はあえて書きませんでしたが、もし、そうだとすると、推敲によって全てが補え、修復される、と言う結論につながります。どんな駄文でも、推敲の技法さえ備わっていれば、誰がやっても、必ず最高のものに変質する、と言う事になります。そうではないでしょう。ここが文章を書くと言う事の特異な存在です。
例えば、一過性の体験(音楽、舞踊、etc.)は、その非再現性に至上の価値を見出しますよね?
文章にも、その側面があるのです。推敲は存在しますが、思考が発生する瞬間、文字となって現れる瞬間、そうしたものは、一過性であり、非再現な存在です。
この特権は、作家や詩人のものではなく、言語を使う全ての人にも言えるはずです。
蓮見氏が高橋氏の文章を当てたのは、そうしたところの鋭敏な感覚によるものなのかもしれません。
いかがでしょうか?
/* 何だか自分の書き込みが多くてあれだけど、大事な事だと思うのでやっぱりID */
現在では、FEPが単に変換作業のみに関わるだけで済まない場合があると思います。 例えば、連文節変換は、日本語として自然な形に変換を試みますが、それは、日本語の思考を作者から機械に委ねる事でもあります。これは当然な事ですが、それが書き手自身の思考方法にも影響をもたらすのではないでしょうか? 日本語入力の方法は、まだまだ多くの可能性があるのではないでしょうか?
例えば、予測入力は単に変換にとどまらない、日本語入力の別の(追加機能的ですが)アプローチの一つです。
もちろん、単純な変換だけと言うのも方法としてあると思います。携帯のように処理能力が限られる場合などでは有効だと思います。そして、そういう方法を、日本語入力の方法として最良と思う人にとっても。
>あなたなりの「FEPを作っている会社がなすべき」考察 いくつかありますが、長くなるのと、具体的な考察の内容は僕のコメントの要旨では無かったので書きませんでした。言いたかったのは、日本人の言語感覚が仮名漢字変換の登場によって大きく変わった(あるいは変わる)、と言う事なのです。
手書き日本語には「えーと, これ字?」というのもあります. 書いた当人が言っているんだから間違いないです.
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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家
日本語入力の本質 (スコア:5, 興味深い)
記事とは直接関係ないのですが。
ワープロ(ハードとソフトを含めて)で書く日本語とペンで書く日本語の間には、根本的な違いがあると思うのです。
(コンピューターでの)日本語の入力は、まずひらがなで入力して、それから仮名と漢字が混じった文章に変換します。この過程、つまり、ひらがなで日本語の文章を書いている段階が発生する、と言うのは、それまでの日本語の書き方と根本的な違いがあるのではないかと思うのです。
ペンで書くと言う事が意味するのは、書きながら、同時に確定されている言葉の流れ(リズムとも言えるかも知れません)によって次々と言葉が紡ぎ出されていく、と言う世界のどの言語にも存在する、言葉自身に内在する「力」がある事です。マイナーな引用で恐縮ですが、日本語以外でも、極端な事例として、ポール・エリュアールの「自動筆記」等が挙げられます(端的過ぎるかも知れないので、この例は無視して下さって構いません)。
しかし、この「変換」と言う方法は、これに一つの断絶をもたらすものです(善し悪しを主張するものではありません。事実としてそうだ、と言う事です)。表意語圏独特の問題であるだけに、(ワールドワイドな)市場の論理だけに任せて良い事でもないと思うのです。
欧米で生まれたタイプライターの進化形であるワープロと、そこに仮名漢字変換と言う作業が加わる日本のワープロとは、質が異なるのではないでしょうか。
言い換えれば、この場合は、単に仮名漢字変換エンジンの問題と言えるのかも知れません。今日一般に普及している連文節変換エンジンが最良のものなのかどうか、と言う事も問えるのかも知れません。例えそれが、最大公約数的に需要を網羅していたとしても、それが日本人の言語観に極めて大きい変化をもたらした事は間違いないでしょう。漢字で物事をイメージすると言う事が将来的に無くなるのかも知れません。これは、価値観や思考方法にとって本質的な事の一つです。また、非常に端的な事例ですが、Webにおいては、変換ミスによるtypoへの拒否感が減ったと言うのは代表的なものでしょう(例えば/.Jでは、書いてある内容を特に重視するので、こうした間違いを指摘する人はいないでしょう?)。
この辺り、ATOKやMS-IMEなどのFEPを作っている会社の功罪は大きいと思います。今後の製品作りには、こうした事への考察がなされて欲しいと思います。例えば、連文節変換と言う以外のアプローチがあるかも知れないのです。
(義務)教育の問題でもあるでしょう。こうした事への取り組みがなされるべきだと思います。
現在、作家でワープロを使って執筆している方は結構います。彼らの作品を、半分機械任せで作られたと批判するつもりはありませんが、この事に言及している作家があまりいないのも事実です。
/* 文学部でまさにこれを研究しているのでID */
Re:日本語入力の本質 (スコア:2, 興味深い)
なっていて、苦笑したことがあります。あ~、ワープロ買ったのねと。
一二行入力したら、すぐに印刷しなきゃいけない時代でした。
数年後、ワープロの進歩に合わせて氏の段落の長さも元に戻ってました。
Re:日本語入力の本質 (スコア:2, 参考になる)
また、京極夏彦など(というかこれくらいしか思いつかない…すみません)のように、コンピュータを利用しながらも非常に漢字(表記)にこだわる方もいますので、一概には言えないのかなぁ?と思います。
ただ、ジャストシステムなんかは「自分たちが日本語を変節させてしまったかもしれない」としていろいろな活動を行なっています。そこらへんも確認してもらいたいです。
参考:http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0331/gyokai53.htm
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
SKKは興味深いと思います。「連文節変換と言う以外のアプローチ」の一つだと思っています。
リンクは参考になりました。少し(だいぶ?)前の月刊アスキーでも、ジャストシステムへのインタービューで似たようなことが出ていましたね。色々考えているのだとは思います。
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0331/gyokai53.htm より。
「ジャストシテスム」ってあんた。
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
でないとジャストシテスムなんて入力できませぬ。
これに限らず「いったいどう打ってるんだ?」と思うような typo ってありますね。
こういうのも研究したら面白いかも。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
>でないとジャストシテスムなんて入力できませぬ。
emacsで良く起きる現象です。
IN EARTH AND SKIE AND SEA STRANGE THYNGES THER BE.
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
連文節変換のIMEでも製品ごとに文節区切りの判定にくせがありますから、容易にどの系統のものを使ったのか認識できる場合がありますね。
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
Re:日本語入力の本質 (スコア:2, 興味深い)
ハッキリ言って、極少数です。
打ち間違いのことについても言及されておりますが、もし本当に連文節変換をしているならば、あり得ないような(連文節では変換のしようがないような)誤変換とかってありますよね。勤め先で見るほとんどの人は文節どころか単語単位って漢字で入力してますし。
それと、以前どこかに書いた気もしますが、最近ATOKが強化している入力支援機能の類も、連文節変換を使用しているならば気にも留めないようなトコロばかりに重点が置かれているようです。
なので、そんなに神経質になっているのは、連文節変換なんて妙なことをしている我々くらいなのではないでしょうか(笑)
#ちなみに、上記の文のほとんどは「。」で区切られる一文を丸ごと入力してから一気に変換させてます。
#更に、思考してから発声するのよりは速い速度で打てますので、ほとんど引っかかることには気付けません。
『最後 に 、 私 が よく 目 に する 入力 の 仕方 を エミュレート する と 、 このように なる って コト を お知らせ して おきます 。 』
-+- 想像力を超え「創造力」をも凌駕する、それが『妄想力』!! -+-
やっちまった(爆) (スコア:1)
-+- 想像力を超え「創造力」をも凌駕する、それが『妄想力』!! -+-
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
#408300 [srad.jp]に、
>うわぁ、ダブった(笑)
とあるので、恐縮ですが、僕の考えは、同じようなもの [srad.jp]になってしまいます。
安部公房自身は? (スコア:2, 興味深い)
安部公房自身は「なぜワープロを使うのか、というと、それはこの時代のスピードについていくため」とか「作品は結局活字になってみんなに読まれるものだが、今までは(ワープロができる以前は)活字になったときの文章をその場で確かめ、直す、ということができなかった」というようなことを言っていました。
また、安部公房と生前から親交のあった、日本語の達者な英国人にして安部公房ウォッチャーのHenry H.Stokes氏とお話をしたことがあるのですが、安部公房の前記の作品と後期の作品の違いの話に及んだとき、彼は「安部公房の作品の、後期における堕落、とも言える緊張感の欠如ともとれるようなものは、結局ワープロなどの機器に頼り始めたところからはじまった」というようなことを言っていました。
Stokes氏自身もその当時N.Y.Timesの特派員をしていましたから、文章とは無縁の世界で生きていたわけではないので、私はかなり正確な批評と思いました。
しかしながら、今になって思い返してみれば、「緊張感の欠如」などを含めたその「流れ」は、結局時代の流れそのもので、安部公房はその流れを、ああいうやりかたで体の中に取り込んでいったのではないか?とも思います。その時代の批評家としての安部公房に、彼が死んだその1993年という年にできた、Webブラウザを伴ったこのインターネットの世界を語らせたかったなぁ、と今でも思います。立花隆なんかより、よっぽど面白いものができたのではないか、と思っています。個人的にはそう思います。
とりあえず、文学部でのご研究の助けになれば良いのですが。
Re:安部公房自身は? (スコア:1)
だろうなぁと残念に思います。私もネットについての考察を
読みたかったですね。
ワープロは当時の一般的な認識は清書機械でしたね。
私の知る限りでは公房氏はワープロに関しては、やはり
校正能力に注目していたと思います。
新潮社の「死に急ぐ鯨たち」のインタビューでは以下のように
答えてます。
-ワープロを使っているそうですが、仕事の能率が目に見えるし
、きれいだし、気分がいいでしょうね
安部 気分なんかよくないよ、別に(笑)。ただ複雑な作業を
エレガントに出来ることは確かだな。エレガントって、気取って
言っているわけじゃないよ。数学や物理の方程式や解答の仕方が
すっきりいった場合の形容なんだ。このインタビューなんかでも、
出来たらワープロのフロッピイ出してほしい
中略
-ワープロと手書きの本質的な違いはなんでしょう。
安部 本質的にはべつに違いはないでしょう。ワープロは書く機械
ではなく、校正する機械なんだ
以下略
# 著作権的に引用はまずいかな。面白そうだと思った人は
新潮文庫を買ってください
Re:安部公房自身は? (スコア:1)
安部公房は、同時代の作家があまり着目しなかった、文章の見た目にも注目した数少ない日本人の作家の一人ですね。
Futaroさんのエピソードも、単に正負それぞれの側面だけでなく、より深い考えにつながるので、とても興味深いエピソードです。参考になります。
/* こういう話に出会えるので、/.に書いて良かったと思います。 */
Re:日本語入力の本質 (スコア:2, 参考になる)
これに根拠がかけらなりともあるとするならば、SKK のような単語変換、2ストロークのような直接入力と ATOK などの連文節変換を使っている人の間に有意な違いが見えなければ変ですが、残念ながら全くそうとは思えませんね。属人的なものの方が遙かに大きい。かな漢字変換を使っている人と、手書きしか使えない人 (とあえて書こう) が同じような傾向の文章を書くとは、こちらの方は思えないので、きちんとした手法を用いて比較しないといくらでも恣意的な結論が引きずり出せているし、こういう学説が絶えない由縁でしょう。
但し、かな漢字変換を用いて書く場合、Style 的な面、例えば漢字が多めになるなどの影響が出るということは認識しています。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
確かに、比較が難しい、データを取るのが難しいのがこちらの論拠の難点です。
しかし、示されている根拠は、短期間、表面的、データが取りやすいものでは無いかと思います。そうでない影響は、今は表面に出なくとも、相当な時間の後にはデータとなって現れもします(歴史研究発祥の手法だと、アナール学派とかそうですよね)。
語弊があるかもしれませんが、そういった側面から、文学部の何人かの研究者はアプローチをかけます(そうでは無い人ももちろんいます)。
時間はかかるし、観念的だし、なかなか成果は出ないですが、少なくとも、とんでも説として切るのはどうかと思います。
文系・理系区別論と言うわけではないのですけれど。
どうかしら、 (スコア:1)
それと、スタイルとセマンティクスは本当に直交する概念ととらえていいのでしょうか。仮に直交する概念ととらえたとしても、スタイルが変化するのであれば、文章も変化しているのは間違いありません。
Re:どうかしら、 (スコア:1)
それに、スタイルとセマンティクスは、そう感じるほど近いものとは思っていません。極端なスタイルの違い、例えば翻訳されたもの、の場合確かに内容も変化しますが、それはスタイルの違いの極端さに比しずっと微妙なものに止まります。正直、口語体の文章のスタイルに大きな意味があるか、といわれると唸ってしまうところがある。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1, 興味深い)
ある活字化あるいはテキスト化された文章が与えら
れた場合,その文章のオリジナルがペンで書かれた
ものなのか,ワープロ打ちされたものなのか
識別可能だと主張されますか?
「根本的な違い」があると主張されるのであれば
これは識別可能なのでしょうね?
あと世の中には口述筆記つうものもありますが,これは
どう考えます?
#実はペリカンを愛用するAC
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
根本的に違う事が、必ず識別可能を意味するものでは無いと思います。一概に全てそうだとは言えないのですが、そこで即座に識別できる差異は、本質の予兆になるかもしれません。
親コメントでも書いた通り、思考方法、価値観、そういった目に見えないものを変えていく事が注目すべき事なのです。無論、その結果、将来の日本人が作る日本語は今と比べれば大きく変わり、その点においては識別可能と言えるかもしれません。
口述筆記については、こうする(こうしなければいけない)事で文章を頭の中で組み立てる人と、書く作業をする人は別になりますが、ここで問題にしているのは、考える人と書く人が同じ場合の話だと思います。
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
> これは識別可能なのでしょうね?
根本的に違っても表層的には同じ、という事はよくあると思うのですが。思うのですが。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1, 興味深い)
だったら IME を使った方が、書けない文字は増えるかも知れないけれど、イメージできる文字はかえって増えるのではありませんか?
知っている漢字の量の少ない人は元々漢字でイメージしていないのだろうし。
記事と直接は関係のない話題でスレッドがあまり長くなるのも良くないのかも知れませんが、興味があったのでちょっと意見を伺いたい次第。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
例えば、多くの文学作品(小説とか詩とか、現代批評と呼ばれるものもそうでしょう)では、一つの言葉に多重な意味を付与したり、連想をうながしたりします。一つの言葉をストーリー全体と関連させ、凝縮や伏線等の意味合いを持たせたりします。それは、推敲の結果であったとしても、最初から確定された文章で構成されたものばかりではないです。こうした言葉同士のつながりを作る言葉のリズムを、作品の本質として最重要と見なす作家や詩人は極めて多いですし、このリズムは、書きながら次の言葉が生まれることであると言う作家も非常に多いです。
文学作品は特異な例ですので、一般の人にとっての方が重要ですが、これもやはり影響はあるはずです。
変換性能に文章の作り方が依存すること(性能が良ければいいということではなく)だけでなく、入力の仕方(繰り返しの事例で恐縮ですが連文節変換と言うアプローチもそうです)も、FEPが担当している事も言語の使い手の、「頭での思い浮かべ方」を変えるのでないでしょうか。
IMEが悪いと言うのではないです。ですが、IMEに思考を左右される度合いが、根本的なものであるのです。
イメージできる文字がかえって増えると言う考え方には同意できません。人は、多くの文章(文学作品に限らず)を読んで、「国語力」を付けるからです。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
ん?ここでIMEの影響を否定して、昔ながらに変わっていないものの方が影響が強いと言っちゃうんですか?IMEなどに影響を受けてるんじゃないかというのがあなたの論旨じゃありませんでしたっけ?
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
増えた(増える)ものより、失った(失う)ものが多いと思うのです。
どちらがより多様で豊かな言葉を使う力につながるかを考えれば、どちらがより影響が強い、と言う事は問題ではないです。どちらも、必ず接するものですから。
そこで、元コメントの「(義務)教育の問題でもある」と思うわけです。
多様で豊かな、とは理詰めではないですが、言葉に関わる議論では避けては通れぬ基準だと思います。どんな基準だ?と言う話になると、記事の趣旨からますます離れて行ってしまうような気がするので、微妙ですが・・・。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
頭で描いていることをストレートに表現しようとすると、手書きの方がスムーズに流れる。しかしワープロ化すると変換ごとに漢字や区切りがイメージ通りか確認する作業が入るので途切れ途切れの作業となりもどかしい。
片や長文をセンテンスごとに区切って、文章を作っていこうとすれば、どちらもそんなに差はない。逆にパーツを集めてまとめる段階になってワープロの方が自由に変更できる分便利。
これは小生の感覚ですが、文を作る人の感覚は皆似たようなものでないかと思う。いや、勝手に思っているだけかもしれませんが(笑)。
上記の思いが正しければ、文章を作る過程によって手書きとワープロの良し悪しが変わるであろう。と言うことは、文を作る人の作り方でどちらが良いか変化すると思うのだが。
その結果は微妙に変わるかもしれないが、こだわる必要もないと思うのだが。。。手書きでもワープロでも作品は作品なのだから。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
確かに一長一短です。
しかし、一方が一方を駆逐する可能性も考えれば、今のままではいいとは思えないのです。特にこの問題はそうなる可能性があながち低くはない。文化の駆逐がどれほどの罪悪かはよく言われますが、これもその一つになりかねません。
文章を考える事と、書く事の境界は微妙です。それだけに、その変化に気付きにくい。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
「どうせあとで推敲するんだから入力するときは自動変換にまかせておいてあとでまとめて修正すればいいや」
という方もいます。
まあ人それぞれってことで。携帯で入力した方が速いという人や graffiti で書いたほうが速いという人も周りにいますし。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
SKK [ring.gr.jp]はいかがなもんでしょうか。
変換という動作は伴いますが、実質「効率の良い単文節変換」なので、
ペンで書くのと思考のサイクルはあまり変わらないと思います。
インタラプトが比較的短時間で済む -- そのかわりたくさん発生します --
ので、漢字を「思い出す」のとそう大差無いのか、それともやっぱり
大きい影響を受けているのか。
ちなみに、SKKのキーストロークはオプションによって差異がありますが、
以下のようになります。
Bungakubu (変換)demasanisorewoK(ここで「文学部」が確定)ennkyuuShi(「研究する」送り変換)teiruK(ここで「研究している」確定)ata (変換)nioU(ここで「方」確定)kagaI(「伺う」送り変換)shitainodesuga,(「伺う」自動確定)
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
なるほど。参考になります。
ここまで連文節変換が普及してしまうと、そうでは無いアプローチがなかなか広まらないのも問題です。
また、異なる変換方法が広く知られたとして、それらが混在する中で、どのように使いこなすか(使い分けるか以上に重要と思います)が日本語の使い手として考えるべき問題になるのかも知れないと思っています。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
変換が間違えている時にいちいち戻って修正するのって めんどくさくないですか?
私個人としては昔からのなれもあって文節変換です。ひらがなって わかっているのに変換する必要ないじゃないですか。
ちなみにいままでで一番気にいっていた入力システムは VAX/VMS の日本語エディターEVEの変換です。ASCII,ひらがな,漢字がモードレスで 変換できましたから。
Re:日本語入力の本質 (スコア:2, 興味深い)
って、それだけではなんなんでもう少し。
えと、入力する時のお作法って、パソコンの類をどのくらいの時期に使い始めたかに依るって気もしてますが、どうですかね?
例えば、私(1994~95辺り?)よりも以前からパソコンとかを使っていた人たちって、文節変換な人が結構多いような気がします。
逆に、比較的最近始めたような人、特に、タイピングゲームの類が流行りはじめた辺り以降からの人たちって、単語変換な人が大勢を占めているって感じが…
で、私はと云うと、ちょうどATOKが「連文節変換で効率アップ」みたいなことを言い始めた頃くらいからまじめにパソコンを使うようになりましたので、連文節(正確には一文丸ごと)変換な入力様式となっております。
んで、私と同様な時期にパソコンを始めたような人でも、誰かに聞きながらパソコンを学んでいったというような人は、師に倣って文節変換な人が多いようです。
よって、連文節変換なんてホントーに少数派って感じしかしてません。
勤め先とかでも、私が長文を入力している様を見た方々は、結構珍しそうな目で見られますし(笑)
…おっと、肝心なのを忘れてました。私、かな入力です(笑)
#まあ、ここに来ればそれなりに連文節変換派って人にも出くわしますが、/.Jなんぞに書き込みするような層って統計的に意味ないし(笑)
-+- 想像力を超え「創造力」をも凌駕する、それが『妄想力』!! -+-
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
どうですかね。両方聞きますが。賢いエンジンをくせまで把握していれば連文節の方が効率良く打てますし。僕も環境によっては単文節の方が打ちやすい時もあります(変換性能が悪かったり、学習能力が無いものとか)。
少なくとも、以前よりは連文節方式は普及していると思います。自然言語処理の需要も考えれば、連文節変換の性能はこれからはるかに向上するでしょう。長い目で見れば、単文節方式に比べて、連文節方式の優位は揺るがないです。
それよりも問題なのは、単文節、連文節に関係無く、再掲で恐縮ですが、それが「日本人の言語観に極めて大きい変化をもたらした事」です。そのことは、親コメントでも触れた通りです。
単文節方式、連文節方式に関わらず、今の日本語入力そのものを取り上げたくて、連文節を出したのは例の一つでした。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
特に、最近では、頭で思いついただけ一気に打ってしまって変換しているように思います。変換エンジンの癖をつかんでいるというのもありますが、さほど変換ミスはないように思います。
# 関西弁が混じるとそれなりなんですが、、、
ただし、おもいついたものをそのままアウトプットしているような状態なので、字句選びに関してはさほど気を遣わずに単純に出している気がします。
つまり、手で書く場合だと、追加・削除が面倒なので有る程度考えてから書きますが、パソコンだと、とりあえず打ってしまって、それから推敲というように手順が変化しているといわれれば、そうなのかもしれません。
ただ、この環境に適応した身では手で書くのがもどかしいというか、効率が落ちるというか、ペースが落ちるので面倒だなぁと思います。
私自身の感想では、読む方はまだまだ活字との差を感じるのですが、書く方に関しては、差はあまり感じません。
道具の差であるだけで、脳内ではさほど差がないように思うのですが、、、
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
(余計なもの: -1)しておいてください。
Arkas
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
「漢字」って、「世界で一番短い詩」だと思うのです。
字によって成立のプロセスが違うからアレですけど、
「静」って、何の「青」同士が争ってるんだろうなー、
とか思うと、いつまでも時間が潰せた、あれは14の
夏のことじゃったー
# 深夜の作文&青春の蹉跌というやつなのでAP(羞
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
私の場合、『文章を書く』という行為を行うときには、タイプするよりもはるかに長く、文章を頭の中で構成する方に時間をかけます。さらに、その後の校正にも時間がかかりますから、かな入力して漢字変換、という処理が占める割合はごく僅かですね。
気軽に書き込めるスラドの文章ですら、多分1/50以下です。
ド素人ですが趣味として小説モドキを書いていたりするのですけど、こちらになるとさらに1/1000とか1/10000ぐらいかな?
(いや、多分もっと少ないな。遅筆だから(笑))
ワードプロセッサを使ったことによるスタイルの変化は、かな漢字変換よりもむしろ、その後の校正処理の方が私にとっては大きいですね。これは日本語固有ではありませんが。
こんな短いコメントですが、幾度も修正したりしてますし。
(今、入力した文章を一行消して書き直したとこです(笑))
校正することを前提として文章が書けることがありがたいですね。たまに紙に書くと、Cut&Pasteしたくなります(^^;)
# でも、「読める&イメージできるけど書けない漢字」は確実に増えてる…。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1, すばらしい洞察)
読むことと書くことのループが持つ意味は、非常に大きいですよね。
書く過程のみに目を向けていると推敲の意味が過小評価される傾向が
生じるように思います。推敲の過程は、すでに書くべきことを頭の
なかで構成している段階でも作用します。「断絶」などといった
大雑把な言葉では触知できないような細かな亀裂というか
断層のようなものは絶えず書くプロセスに関わっていることを
考えたとき、結論には少なからぬ修正が求められるのではないでしょうか。
;; とはいえ、あるインタビューで蓮実重彦が高橋源一郎の
;; 作品をワープロで書いたか手書きだったかをことごとく
;; 当てて見せてたことがあったのにはぶったまげたのでAC。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
推敲の話はあえて書きませんでしたが、もし、そうだとすると、推敲によって全てが補え、修復される、と言う結論につながります。どんな駄文でも、推敲の技法さえ備わっていれば、誰がやっても、必ず最高のものに変質する、と言う事になります。そうではないでしょう。ここが文章を書くと言う事の特異な存在です。
例えば、一過性の体験(音楽、舞踊、etc.)は、その非再現性に至上の価値を見出しますよね?
文章にも、その側面があるのです。推敲は存在しますが、思考が発生する瞬間、文字となって現れる瞬間、そうしたものは、一過性であり、非再現な存在です。
この特権は、作家や詩人のものではなく、言語を使う全ての人にも言えるはずです。
蓮見氏が高橋氏の文章を当てたのは、そうしたところの鋭敏な感覚によるものなのかもしれません。
いかがでしょうか?
/* 何だか自分の書き込みが多くてあれだけど、大事な事だと思うのでやっぱりID */
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
ひらがな入力なら、1キータイプ=1文字ですから、解決します。日本語入力を本格的にやりたい人は、大変でも身に付けるほうがよいのかもしれません。僕はひらがな入力はできませんから、実際はどういう感覚なのか知りませんが。
それから、キーボードを打鍵して入力するのと、文字を自分で書くのとの違いは、字面などへの感覚にも影響しているでしょうね。
こういう微妙な問題意識を、誰にでもきちんと主張できるような問題として表現し、研究をしていくためには、非常に大きな努力が必要なんでしょうね。がんばってください。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
筆記の場合は、もっと崩れますねっ!!
IN EARTH AND SKIE AND SEA STRANGE THYNGES THER BE.
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
ex.
ローマ字---音素単位
JISカナ----カナ表記単位
親指シフト-音節単位
で、もちろん質的な問題もあると思いますが、使い心地という点が軽視されている気がします。主観的な部分ではありますが。
ちなみに、私は初期のEPSONノートキーポードと98DOS版EG Bridgeが一番好きだったりします(^^;)
マシンスペックが上がってからは、WXシリーズも良かったんですけどね。
#これだけ携帯が普及するとまた、変換が単文節とか、2~3文節単位になってきそうな気が・・・
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
前半の論旨に従順になるならば、それは、
「入力デバイスを作っている(or定義している)会社」
じゃないの?
「変換」そのものは、平仮名なりローマ字なりを、漢字を含む形式に置き換えることしかしてないでしょ?
あなたなりの「FEPを作っている会社がなすべき」考察はありますか?
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
現在では、FEPが単に変換作業のみに関わるだけで済まない場合があると思います。
例えば、連文節変換は、日本語として自然な形に変換を試みますが、それは、日本語の思考を作者から機械に委ねる事でもあります。これは当然な事ですが、それが書き手自身の思考方法にも影響をもたらすのではないでしょうか?
日本語入力の方法は、まだまだ多くの可能性があるのではないでしょうか?
例えば、予測入力は単に変換にとどまらない、日本語入力の別の(追加機能的ですが)アプローチの一つです。
もちろん、単純な変換だけと言うのも方法としてあると思います。携帯のように処理能力が限られる場合などでは有効だと思います。そして、そういう方法を、日本語入力の方法として最良と思う人にとっても。
>あなたなりの「FEPを作っている会社がなすべき」考察
いくつかありますが、長くなるのと、具体的な考察の内容は僕のコメントの要旨では無かったので書きませんでした。言いたかったのは、日本人の言語感覚が仮名漢字変換の登場によって大きく変わった(あるいは変わる)、と言う事なのです。
Re:日本語入力の本質 (スコア:1, 参考になる)
「機械入力+かな漢字変換」による日本語記述の手段が定着したことで、
日本人の言語感覚が大きく変わった。
それは、文章をイメージの集合としてでなく音として捕らえるようになったことと、文章を構成する要素の内、表意文字である漢字、即ち「イメージ」の選択を機械にゆだねることになったからだ。
ということですな。
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
手書き日本語特有の「…えーと、これどういう字だっけ?」は意図的に無視ですか?
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
手書き日本語には「えーと, これ字?」というのもあります. 書いた当人が言っているんだから間違いないです.
Re:日本語入力の本質 (スコア:1)
と云うようなことにかなりの頻度で、特に、しばらくぶりに私が何らかのメモを取った翌日とかに、遭遇する気がするのですが、何ででしょうか(笑)
-+- 想像力を超え「創造力」をも凌駕する、それが『妄想力』!! -+-
Re:日本語入力の本質 (スコア:0)
という [goo.ne.jp]