quabbinさんのトモダチの日記。 アナウンス:スラドとOSDNは受け入れ先を募集中です。
yasuokaの日記: NDL古典籍OCR用RoBERTa-small ver.2は「いと小さく[MASK]ゆるはいとをかし」の[MASK]に何を埋めてくるのか
2021年12月23日の日記の読者から、NDL古典籍OCR用RoBERTa-small ver.2という単文字日本語モデルをお教えいただいた。以前、私(安岡孝一)が作ったroberta-small-japanese-aozora-charを再トレーニングして、TrOCRのデコーダーに使っているらしい。とりあえず、当該モデルをGoogle Colaboratoryで動かしてみよう。
!pip install transformers
!test -f model-ver2.zip || curl -LO https://lab.ndl.go.jp/dataset/ndlkotensekiocr/trocr/model-ver2.zip
!test -d model-ver2 || unzip model-ver2.zip
from transformers import pipeline
fmp=pipeline("fill-mask","model-ver2/decoder-roberta-v3")
print(fmp("いと小さく[MASK]ゆるはいとをかし"))
「いと小さく[MASK]ゆるはいとをかし」を穴埋めさせてみたところ、私の手元では以下の結果になった。
[{'score': 0.16102387011051178, 'token': 95, 'token_str': 'み', 'sequence': 'いと小さくみゆるはいとをかし'}, {'score': 0.05442138388752937, 'token': 51, 'token_str': 'こ', 'sequence': 'いと小さくこゆるはいとをかし'}, {'score': 0.050991836935281754, 'token': 45, 'token_str': 'き', 'sequence': 'いと小さくきゆるはいとをかし'}, {'score': 0.04673411697149277, 'token': 75, 'token_str': 'に', 'sequence': 'いと小さくにゆるはいとをかし'}, {'score': 0.0423908531665802, 'token': 108, 'token_str': 'れ', 'sequence': 'いと小さくれゆるはいとをかし'}]
漢字の「見」ではなく、ひらがなの「み」を埋めてきているが、それでも素晴らしい。だとすると、たとえば拓本文字データベースと絡めて再トレーニングすれば、さて、何かできるかなぁ。
yasuokaの日記: アイヌ語の「イワイサルㇱペ」は「虎」なのか「オオカミ」なのか「六尾獣」なのか
一昨昨日の日記に関連して、アイヌ語の「イワイサルㇱペ」を調べていたところ、B・ピウスツキ『樺太アイヌの言語と民話についての研究資料<26>病弱な者でも有能な憑き神によって開運する由来話』(創造の世界, 第77号 (1991年2月), pp.138-145)に、以下の文章を見つけた(p.140)。
ネヤイケヘ そうしたら(ちょうど、そこへ)
アンポニウネ ぼくの年下の
ホㇱキラムフ 兄さんが
キラアニエㇸマヌ 逃げてやってきた。
オーポニ (よく見ると)その後を
イワイサルㇱカムイ 六尾をもつ神(という魔性のオオカミ)が
アンホㇱキラムフ ぼくの兄さんを
ノㇱパ 追いかけていた。
アノㇱキラムフ ぼくの兄さんを
アネソㇹキ ぼくは(わきに手早く)よけ(てやり過ごし)た。(夢中に兄さんを追いかける性悪のオオカミにぼくは目をすえて)
アヌッソロマレペ ぼくが(かねて)内ふところにしのばせていたものを
アヌイナマヌ ぼくは取り出した。
トイキエムシアニ (鞘を払い)トイキ(という名)刀で
イワイサルㇱペ 六尾をもつ(というオオカミの)奴を
アンタウケ ぼくはたたき斬った。
アルパㇵノㇱキケタ (みごと)ちょうど、ど真中を
アントゥイテㇸテ ぼくは斬(ってしま)った。
「虎」ではなく「オオカミ」らしい。Bronisław Piłsudski『Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore』(Cracow: Imperical Academy of Sciences, 1912)の原文にあたってみよう(pp.239-240 [in Nr.27. Dictated (December 1903) by Nita aged 28 of village of Aj.])。
Nejàjḱehé am-ponínue hóśki rámhu kira ani éx manu, opóni ivaj-saruś kamúi an-hóśki rámhu nośpa. Anóśki rámhu anesóxki. An-usòmarepé anújna manu. Tóiki emuś-ani ivaj-saruśpe antáwḱe, arúpax nóśḱe-ḱeta antújtexte.
Meanwhile the younger of my elder brothers came running; following (and) pursuing my brother, (there came) a beast with six tails. I made way for my elder brother. I seized the thing in my bosom: with (my) earthen sword, I struck the six-tailed beast; just in the middle did I cut it in two.
原文は「虎」とも「オオカミ」とも書いていないようだ。日本語訳をおこなった藤村久和は「H・Y媼によれば、この動物はオオカミであって」としているものの、それを裏付ける他の文献が引用されているわけでもない。また、Piłsudski自身は、アイヌ語の「horoḱéu」を「wolf」と訳している(『Materials for the Study of the Ainu Language and Folklore』pp.199-213)。さて、どうしたものかな。
yasuokaの日記: Universal Dependencies 2.13がリリース
Universal Dependencies 2.13がリリースされた、との連絡をもらった。半年前のUniversal Dependencies 2.12と較べて、Classical Armenian、Georgian、Haitian Creole、Highland Puebla Nahuatl、Macedonian、Middle French、Vepsが増えており、148の言語にまたがるツリーバンクとなっている。私(安岡孝一)個人としては、deplacyでМакедонскиを扱う際に精度が上がらず苦労したので、UD_Macedonian-MTBによるマケドニア語サポートはうれしい限りである。また、現代中国語(簡化字)はUD_Chinese-BeginnerとUD_Chinese-PatentCharが、イタリア語はUD_Italian-Oldが追加されるなど、どんどん拡大が続いている。とりあえず、先月時点での係り受け解析ツールの状況を『Universal DependenciesとBERT/RoBERTa/DeBERTaモデルによる多言語情報処理』(2023年10月版)にざっとまとめておいたので、参考にしてほしい。
yasuokaの日記: アイヌ語に「虎」は無いのか
思うところあって、アイヌ語で「虎」をどう言うのか調べていたところ、Михаил Михайлович Добротворский『Аинско-русскій словарь』(Казань: Университецкая типография, 1875)の語彙番号1519に「虎」を見つけた。
Ивайсаруспѐ. С. тигръ (въ древности были на Сахалинѣ).
この記述を信じるなら、昔、樺太(サハリン)には「虎」がいたらしい。ただ、これ「イワイサルㇱペ」(iwaysaruspe)だとして、iway-sar-us-peなのかしら?
yasuokaの日記: 『蝦夷見聞記』の「ニヲシケボイ〱 チブカルハ トツブ ウヱクシハ ヲシケ カモイ ヲマレハ モムアンベ タンコタン シレバヤッカイ」をUDで読む
10月21日の日記の続きだが、秦檍磨(村上島之允)『蝦夷見聞記』(北海道大学附属図書館 旧記/0061)の5枚目画像には「ニヲシケボイ〱 チブカルハ トツブ ウヱクシハ ヲシケ カモイ ヲマレハ モムアンベ タンコタン シレバヤッカイ」というカタカナ書きのアイヌ語が含まれている。私(安岡孝一)が読む限り「ni uske epoypoye cip karpa tup u-e-kuspa uske kamuy omarepa mom an pe tan kotan sir epa yakka」のようなので、ざっとUniversal Dependenciesで書いてみた。
# text = ニヲシケボイ〱 チブカルハ トツブ ウヱクシハ ヲシケ カモイ ヲマレハ モムアンベ タンコタン シレバヤッカイ
1 ニ ni NOUN 名詞 _ 2 nmod _ SpaceAfter=No
2 ヲシケ uske NOUN 名詞 _ 3 obj _ SpaceAfter=No
3 ボイ〱 epoypoye VERB 他動詞 _ 4 acl _ _
4 チブ cip NOUN 名詞 _ 5 obj _ SpaceAfter=No
5 カルハ karpa VERB 他動詞 _ 10 advcl _ _
6 トツブ tup NUM 数詞 _ 7 obj _ _
7 ウヱクシハ u-e-kuspa VERB 他動詞 _ 8 acl _ _
8 ヲシケ uske NOUN 形式名詞 _ 10 iobj _ _
9 カモイ kamuy NOUN 名詞 _ 10 obj _ _
10 ヲマレハ omarepa VERB 他動詞 _ 17 advcl _ _
11 モム mom VERB 自動詞 _ 13 acl _ SpaceAfter=No
12 アン an AUX 助動詞 _ 11 aux _ SpaceAfter=No
13 ベ pe NOUN 形式名詞 _ 17 nsubj _ _
14 タン tan DET 連体詞 _ 15 det _ SpaceAfter=No
15 コタン kotan NOUN 名詞 _ 16 nmod _ _
16-17 シレバ _ _ _ _ _ _ _ _ SpaceAfter=No
16 シㇼ sir NOUN 名詞 _ 17 obj _ SpaceAfter=No
17 エパ epa VERB 他動詞 _ 0 root _ SpaceAfter=No
18 ヤッカイ yakka SCONJ 接続助詞 _ 17 mark _ _
アイヌ語UDエディターで可視化すると、こんな感じ。動詞の複数形がやたらと出てきて、複数のkamuyが絡んでるのが良く分かる文だ。ただ、この文は『蝦夷見聞記』には出てくるが、なぜか『蝦夷島奇觀』には現れない。どうなってるんだろ。
yasuokaの日記: Carpenters『Touch Me When We're Dancing』の間奏でTom Scottは何を吹いているのか
思うところあって、Carpenters『Touch Me When We're Dancing』のブッ飛んだ間奏のコード進行を耳コピし直してみた。ただ、この部分がト長調の中でいかにブッ飛んでるかを示すために、全体のコード進行をざっと見てみることにする。
Gmaj7 Em7 Cmaj7 Am7 Am7onD
Gmaj7 Em7 Cmaj7 Am7 Am7onD
Gmaj7 Em7 Cmaj7 Gmaj7
Gmaj7 Em7 Cmaj7 Gmaj7
Am7 G6 Cmaj7 Am7 Am7onD
Cmaj7 Am7 D9 Cmaj7 Bm7 Gmaj7
Cmaj7 Am7 D9 Em7 A7 Am7 Am7onD
Gmaj7 Em7 Cmaj7 Am7 Am7onD
Gmaj7 Em7 Cmaj7 Gmaj7
Gmaj7 Em7 Cmaj7 Gmaj7
Am7 G6 Cmaj7 Am7 Am7onD
Cmaj7 Am7 D9 Cmaj7 Bm7 Gmaj7
Cmaj7 Am7 D9 Cmaj7 Am7onD
G7onF F#m7b5 B7 DonE Em Em Em7onD
Cmaj7 Em7onB A7sus4 A7 Am7 D9 C#dim Am7onD
Cmaj7 Am7 D9 Cmaj7 Bm7 Gmaj7
Cmaj7 Am7 D9 Cmaj7 Am7onD
Cmaj7 Am7 D9 Cmaj7 Bm7 Gmaj7
Cmaj7 Am7 D9 Cmaj7 Am7onD
なぜそこで突然G7onFがブチ込まれて、Tom ScottがBの音を吹いているのか、ワケがわからない。わからないがカッコいい。でも結果として、ト長調へ戻るのにかなり苦労していて、C#dimなんていう荒技を繰り出すことになっている。これ、サックスソロとるの大変だったろうなあ。
Torisugariの日記: 123年間の歴史で初めての監督解任と2024年の大河ドラマ
先月、つまり2023年9月に日本代表対ドイツ代表のサッカーの親善試合があって、4対1で日本代表が勝ちました。その直後、ドイツ代表チームの監督であるハンジ・フリック氏は解任されてしまいました。この両者の因果関係は必ずしも明白ではありあませんが、数日後にフランス代表との親善試合が予定されていたのにもかかわらず、ドイツ代表は急に監督を交代させてしまったわけですから、まあ、負けたからクビになったと捉えて良いでしょう。
とはいえ、メディア報道では、日本戦の前からハンジ・フリック氏は近々代表監督を外されるのではないかという憶測が飛び交っていました。2022年のワールドカップを含めて、直近の十数試合の成績があまり良くなくて、人気も低迷しつつあったからです。
一方で、解任されるはずがないという意見もありました。彼はドイツ代表監督の前にバイエルン・ミュンヘンというサッカークラブの監督を務めていたのですが、その時にリーグ優勝・協会カップ優勝・大陸カップ優勝の3冠を獲得して、特に大陸カップ(欧州チャンピオンズリーグ)は史上初の全勝優勝でした。ドイツのサッカー協会は、方々に無理を言って、そんな歴史に名を残すような優秀な監督を2年前に引き抜いたのです。しかも、当初は歴代タイの就任後連続無敗記録をマークして協会の期待に応えていました。だから、ちょっとやそっとの不調くらいでは続投だろう、という観測です。
この説をさらに補強する意見として、ドイツのサッカー協会はこれまで一度も監督を解任したことがない、というデータがありました。つまり、監督交代には任期満了か監督自身が申し出て辞任するかしかありません。そして、ハンジ・フリック氏は日本戦の前にも後にも辞任の意志はないとインタビューで答えています。
ドイツの協会と監督がどのような契約を結んでいるのか、詳しくはわかりませんが、一般論で言うと、クラブや協会はいつでも監督を解任できる代わりに、監督は次の監督の仕事が見つかるまで任期中は(出来高給などを除く)給料を受け取り続けることができる、という形になることが多いです。つまり、元監督が次職を見つけるまで、協会は元監督と新監督に二重払いを続けることになります。協会は二重払いを避けたいので、同じ辞めさせるなら解任(会社都合退職)するより辞任(自己都合退職)して欲しいわけですが、ハンジ・フリック氏側としては前述の経緯があるので、手ぶらでは戻れないという思いがあるはずです。任期はあと一年以上あって、任期中に欧州選手権という大舞台もあるので、彼の意志が変わらなければ、監督も代わらないだろうと思われていたのです。
しかし、冒頭にも述べた通り、ハンジ・フリック氏は解任されました。だから、メディア各社は驚きと納得を交えてそれを伝え、「ドイツサッカー協会の123年間の歴史で初めて解任された監督」という表現になったのです。
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でも、それって本当のことでしょうか?かつて、ゲイリー・リネカー氏が1990年のワールドカップで
Football is a simple game. Twenty-two men chase a ball for 90 minutes and at the end, the Germans always win.
サッカーはシンプルな競技だ。22人が90分間ボールを追いかけ、最後は常にドイツが勝つ。
という言葉を残したくらい、国際サッカーの舞台において、ドイツはかなりの強豪国です。だから、監督は常に勇退してきたから解任なんてないんだ、と言われたら素直に納得してしまいそうです。
しかし、ちょっと調べれば分かりますが、1998年に就任したエーリッヒ・リベック氏は10勝6分8敗という成績で2年後に交代しています。これはハンジ・フリック氏の12勝7分6敗より下の成績ですから、今回と同じようなことが23年前にもあったということです。違いはエーリッヒ・リベック氏は解任されたのではなく辞任したのです。辞任は解任よりも不利な退職ですから、それを呑んだのには相応の事情があったでしょう。
とにかく、強豪といえど監督成績の浮き沈みは確かにあったのです。結果として解任がなかったのは、伝統に鑑みて、解任自体を避けるある種の努力がなされたからだと思います。実際のところ、解任が発表される直前は、ネット上でリベック氏の名前を何度か目にしましたし、続投説の根拠にもなっていました。今こうやって比べたくなる2人ですから、案外、23年前も100年間だれも解任されていない、というようなことが取り沙汰されていたかもしれませんね。
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さて、123年というのは途方もない数字です。前節では「強豪」と「伝統」をキーワードにして「解任」がなかったカラクリを考えてみましたが、では123年間、サッカーのドイツ代表は常に伝統ある強豪国として存在し続けていたから解任がなかったのでしょうか?
今から123年前、1900年のドイツは帝政時代です。ということは、その後、第一次世界大戦と第二次世界大戦の当事者となって、領土が増えたり減ったり分割されたり統合したりして、それでいて、今イメージするような伝統ある強豪国だから解任が一度もなかった、というのはやはりおかしなことのように思えます。少なくとも新興国であったり弱小国であったことはあったはずですから。出来たてで弱いころの監督はなぜ解任されなかったのでしょうか?
ドイツ代表の初代監督はオットー・ネルツという人で、1926年に監督に就任しました。1923年としている場合もありますが、いずれにしろ、1900年から数えて20年以上監督がいませんでした。これが先ほどの問いの一つの答えになると思いますけれど、要するに、弱かったころは解任すべき監督もまたいなかった、というトリックです。選手と同じように監督も試合ごとに召集されていた時代があって、そういった招集監督たちの中から最初に専任の監督となったのがオットー・ネルツです。
そして、彼のWikipediaの記事をみると、衝撃的なことが書いてあります。
しかし本大会では準々決勝でノルウェーに0-2で敗れると責任を問われ、大会終了後に監督を解任された。
初代監督のオットー・ネルツは解任された、と書いてあるのです。つまり、この記事が正しければ、123年間で初めて解任されたという文言が虚偽だったことになってしまいます。日本語版の記事の元になった英語版の記事には次のように書いてあります。
However, Germany was eliminated early in the tournament after a shock defeat to rank outsiders Norway. Shortly thereafter, Nerz was relieved of his duties as coach and replaced by Sepp Herberger.
https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Otto_Nerz&oldid=293211527
よしんば日本語版が幾分か誤りを含んでいて英語版が正しかったとしても、"be relieved of one's duties as coach and replaced"は「解任」ではないのでしょうか?気になってドイツ語版を見てみると、もっと詳しい事情が書いてありました。
Auch in sportlicher Hinsicht konnte sich Nerz mit den Nationalsozialisten arrangieren, da diese die Fußballnationalmannschaft gern als Propagandainstrument nutzen wollten. Er unterstand nun dem Fachamt Fußball, das mit fußballerischen die Überlegenheit der deutschen Rasse zu demonstrieren dachte. Diese Hoffnung konnte Nerz bereits bei der Weltmeisterschaft 1934 teilweise erfüllen – mit Platz 3 (3:2 über Österreich) erreichte die Nationalmannschaft ihren bis dahin größten Erfolg. Zur Vorbereitung auf das Fußballturnier der Olympischen Spiele 1936 in Berlin setzte das Fachamt 1935 die Rekordzahl von 17 Länderspielen an. Davon wurden 13 gewonnen, lediglich die Begegnungen mit Spanien (1:2), Schweden (1:3) und England (0:3) gingen verloren, die Partie gegen Norwegen endete unentschieden (1:1). Damit ging die deutsche Nationalmannschaft als einer der Favoriten in das olympische Turnier. Nach einem leichten 9:0-Sieg über Luxemburg war Norwegen der nächste Gegner im K.-o.-System. Mit Blick auf die nachfolgenden schwereren Aufgaben erhielt Nerz vom Fachamts-Leiter Felix Linnemann die Anweisung, die Leistungsträger der Mannschaft zu schonen. Daraufhin ließ Nerz eine Mannschaft mit zahlreichen Reservespielern auflaufen. Unter den Augen des an sich am Fußball nicht interessierten Adolf Hitler unterlag Deutschland mit 0:2. Diese Niederlage, mit der Deutschland aus dem Turnier ausschied, wurde zum Politikum, Nerz wurde vom Fachamt zwangsbeurlaubt, und sein Assistent Sepp Herberger übernahm beim nächsten Länderspiel am 13. September 1936 gegen Polen die Aufgaben des Reichstrainers. Am 27. September 1936 im Spiel gegen die Tschechoslowakei in Prag saß Nerz aber wieder auf der Bank, und Herberger verantwortete das am selben Tag stattfindende Spiel gegen Luxemburg, in dem vier Spieler ihr Länderspieldebüt gaben und weniger Stammspieler als gegen die Tschechoslowakei im Einsatz waren.
Am 2. November 1936 wurde schließlich Herberger zum Reichstrainer und Nerz zum „Referent für die Nationalmannschaft“ ernannt. So arbeitete Nerz mit Herberger nicht nur zusammen, sondern blieb dessen Vorgesetzter noch bis unmittelbar vor der Weltmeisterschaft 1938. In der Fachpresse zuletzt als „Chef der deutschen Nationalmannschaft“ bezeichnet und gewürdigt, übte Nerz das Amt bis Mai 1938 aus. Kurz zuvor hatte er eine Professur an der Deutschen Hochschule für Leibeskultur übernommen und wurde deren Direktor. Er veröffentlichte mehrere sportwissenschaftliche Publikationen.
Nach dem Ende des Zweiten Weltkrieges wurde Nerz im Juli 1945 von der Roten Armee verhaftet und in das Speziallager Nr. 3 Berlin-Hohenschönhausen verbracht. Von dort aus wurde er am 16. Oktober 1946 ins Speziallager Nr. 7 nach Sachsenhausen weitertransportiert, wo er am 19. April 1949 an einer Meningitis starb.
https://de.wikipedia.org/wiki/Otto_Nerz
オットー・ネルツは、1934年のワールドカップで弱小国だったドイツを率いて強豪のオーストリアを破り、3位に導きました。1936年のベルリンオリンピックを迎えるにあたって、この成果は時の政権をとっていたナチス党を多いに喜ばせ、国威発揚のためさらなる好成績を得るべく、1年間で17試合もの強化試合が組まれ、ネルツ率いるドイツ代表は13勝1分3敗という好成績を叩きだしました。しかし、オリンピック本番では、1回戦のルクセンブルク戦こそ9対0で大勝したものの、次のノルウェー戦は3回戦以降の疲労蓄積を考慮して選手を入れ替えるように協会側から言われてそれに素直に従った結果、観戦するヒトラーの眼前で0対2というスコアで敗北、2回戦敗退となってしまいました。
日本語版や英語版のウィキペディアでは、ここでネルツが解任されたことになっていますが、実際にはより複雑なことになっています。
オリンピックでの敗戦は政治問題となったので、ネルツはチームを離れ、部下のゼップ・ヘルベルガーが次の9月13日のポーランド戦での指揮を執りました。ところがその次の親善試合はルクセンブルク戦とチェコ戦が同じ日に別の場所で組まれ、ヘルベルガーが指揮するルクセンブルク戦はレギュラーが主体となって、ネルツが指揮するチェコ戦は初招集を含む控え選手が主体となって選手が割り当てられる、変則的な監督両立体制となっていました。
その試合でネルツが代表チームへと復帰したあと、協会は„Referent für die Nationalmannschaft“(国家代表代表)、通称„Chef der deutschen Nationalmannschaft“ (ドイツ国家代表主席)という役職を新設し、ネルツをそこへ「昇進」させて、ヘルベルガーを代表監督へと昇進させることで、上下関係を維持したままヘルベルガーを代表監督にしてしまったのです。
ネルツはこの職を1938年のワールドカップ直前まで続け、体育大学の教授へと転職しました。
これは、中宮遵子状態から皇后遵子・中宮定子状態へと移行し、中宮定子状態から皇后定子・中宮彰子状態へと移行したのと似ています。離婚が成立していないという立場に立てばネルツは解任されていない、と言えるでしょうし、もし定子に男児が生まれていても継承権がなかったろう(個人の感想です)から、事実上の廃后だと解すれば、ネルツは表舞台でA代表を指揮できない以上、第三者からは事実上の解任に見えるとも言えるわけです。
これは私の想像ですけれど、そもそも1934年のワールドカップに3位になったというネルツの実績が、このややこしい状態を生んだのではないかと思います。もちろん、ベルリンオリンピックでの敗退は万難を排してでも避けるべきでしたが、それは結果論であって、どこかの段階でリスクを負うのは勝負事では避けられないことです。それはそれとして、協会やヘルベルガーの立場で考えると、1938年のワールドカップは前任者以上の結果が求められます。あれは実力以上のものが出たたまたまの勝利だったとは言えません。この時点では知る由もないかもしれませんが、1938年のワールドカップはアンシュルス後なので、格上のオーストリア代表を吸収合併したドリームチームで出場するのですから、なおさら好成績が求められます。ネルツは結果を出した後だから、あれくらいで済んでるわけで、政治的に失点が付いたとはいえ手腕は確かなものがある、くらいの評価と思います。
そういう諸々を考えて、各々が嫌なことを我慢しながら、誰の面子も傷つけないようにした答えが、厳密に言うと解任はしないが実質的に解任する、だったのではないでしょうか。前言を翻すようですけれど、強豪国ではないから却って監督を解任できなかったという場合もあるのです。
監督を解任しない伝統というのは、なるほど立派なもので学ぶべきところも多々あると評価できますけれど、別の視点から考えると、伝統という名で呼ばれてはいるものの、実態は戦時中から続く呪縛のような何かがあって、ドイツ人たちはハンジ・フリック氏を解任することで、それから解き放たれたとも言えます。
なにしろ、協会にとって解任は損ですけれど、経済的には至極健全ですからね。
yasuokaの日記: 象潟版『蝦夷方言藻汐草』の「ヱナウ」と別海版『蝦夷方言藻汐草』の「イナウ」
本田優子「象潟に伝存する『蝦夷方言藻汐草』について」(雄波郷, 第7号(2013年3月), pp.1-8)が指摘するとおり、象潟郷土資料館蔵『蝦夷方言藻汐草』は他の版とは大きく異なっている。運よく象潟版『蝦夷方言藻汐草』の「ヱナウ」のページを見ることができたので、アイヌ語の項目をざっと書き写した。
ヱカユプ プシ
ヱナウ
シトヱナウ
ヱナウキケ
キケパラセ
キケツノヱ
ヱナウシヤン
カムイタグシヤ
ルイシヤン
マキリ イヒラ
ケマコルシントコ ホツカイ
シヨロ ホケカ子
これに対し、加賀家文書館(別海町)蔵の『蝦夷方言藻汐草』(整理番号K3-49)は、以下のような並びである。
マキリ〇イヒラ
ケマコルシントコ〇ホツカイ
イナウ
シヨロ〇ホケカ子
テウナ
キシヤカニ
ヲフ〇クマム〇ハナレ〇マレフ
トシ〇ムニンベ〇レバトシ
キテ〇キラム
ムナムゲツフ〇テツクブ
キナヤツトイ
カシユブ〇ウケブ
シヤクシ
イクバシ
ニブ〇イマニツ
別海版は、後半に補遺らしき部分があるのだが、そこには「イナウ」関係のアイヌ語は現れないようだ。ただ、これらの比較をやろうとするなら、文書画像が公開されている方が楽だったりする。それぞれ館ごとの事情はあるのだろうが、さて、何とかならないかなあ。
yasuokaの日記: 蝦夷方言『藻汐草』チヤーラケのアイヌ語に付与された漢字の傍訓
上原熊次郎・阿部長三郎『藻汐草』(白虹斉[最上徳内]、文化元年)の「チヤーラケ」には、カタカナでアイヌ語が書かれており、右横に漢字で傍訓が付与されている。最初の「イカラク子クル」には「姪人」という傍訓があるので「e=karku ne kur」だろうというのが分かるし、次の「子フイタウン」には「何云」という傍訓があるので「nep itak un」だろうと想像がつく。「トノトシリカ」には「宴中」という傍訓があるので「tónoto sir ka」だと思われるのだが、さてその次の「ワイヌンヌ」に「慮」って何だろう。そのまた次の「クケナンコラ」に「為焉」は、たぶん「ku=ki nankor a」あたりだと思う。
悩みつつ過去の論文を探してみたところ、佐藤知己『彰考館旧蔵アイヌ語テキスト「蝦夷チヤランケ並浄瑠理言」について』(北海道大学文学研究科紀要, 第109号(2003年2月), pp.31-58)に行き当たった。「ワイヌンヌ」は「ueinonno」(祈り)らしい。とすると、全体としては「e=karku ne kur nep itak un. tónoto sir ka ueinonno ku=ki nankor a.」というアイヌ語に「姪人何云宴中慮為焉」という傍訓が付与されていることになる。うーん、その傍訓は、漢文としては語順がメチャクチャで、少なくとも私(安岡孝一)には読みきれない。さて、どうしたもんだろ。